青い空への祈り Presented by Suzume
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「そろそろ休憩にするか」 そう言ってグレイは目頭を揉みほぐしながらネクタイを緩めた。 そんなにきつく締めているわけではないが、襟元を寛げればそれと同時に張り詰めていた気持ちも緩もうというものだ。 手早く机上の書類を片づけて顔を上げた彼は、何やらぽかんとしているアリスの様子に気がついた。 サボりがちな上司のおかげで仕事が押していることもあって、長い時間根を詰めていたから、休憩と聞いて気が抜けてしまったのかもしれない。 「アリス、大丈夫か?」 ぼんやりこちらを見ている年下の同僚に声をかけたら、彼女はまるで雷にでも打たれたかのようにびくんっと反応した。 「……アリス?」 もしかして寝ていたのだろうか。 もしそうだとしても無理はない。 そのくらいハードスケジュールで仕事をこなしていたのだ。 いくらしっかりしているとはいってもアリスはまだ少女というべき年頃だ。そんな彼女に無理な仕事を強いていたことを思えば、責められるべきは寧ろこちらの方だろう。 グレイは大いに反省しながら、まだどこかぼんやりしているアリスの元へ歩み寄った。 「大丈夫か? ずいぶん疲れさせてしまったようだが……」 血色は悪くはないし、表情などに疲れの色は見えないが、それは彼女の若さゆえだろう。 彼はアリスを覗き込んで、何気なく手を伸ばした。 しかし、その手が彼女の頭に触れるより僅かに早く、 「だ、大丈夫だから!」という言葉に遮られた。 まるで触れられるのを拒むかのような声の強さに、グレイも思わず動きを止めた。 「アリス?」 アリスはまるで訝しむこちらの思いを肯定するかのように、不自然なまでのわざとらしさで自分の机上の片づけを始めた。 そして呆気に取られるグレイをよそに、彼女は手早く書類を一纏めにするや否や、 「私、ちょっと外の空気を吸ってくるわ」と脱兎の如く部屋を出て行ってしまった。 あまりのショックに言葉も出ない。 そう、彼は間違いなくショックを受けていた。 憎からず思っている――もっと言えば好意を抱いている相手から、突然あんな態度を取られれば誰しも動揺するというものだろう。 確かにこの塔に住まうようになったばかりの頃のアリスは、グレイに対して頑なな態度を取っていた。 心の準備も何もなくそんな状況に置かれたのだから、彼女が混乱して自分の感情を持て余してしまっていたのも無理はない。 しかしまもなくアリスは少しずつこちらに心を開いてくれるようになった。 甘えを伴った八つ当たりは鳴りを潜めて、代わりに可愛らしい笑顔を見せてくれるようになった。 今では同僚としての信頼を勝ち得て、年の離れた友人として接してくれていた。 少なくとも、グレイはそう認識していたのだが……。 「俺は、何か彼女の気に障るようなことをしてしまったんだろうか……」 一人取り残された形になった彼は、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。 あれこれ思い返してみても心当たりはまるでない。 まるでないが、あんな態度を取られるからには、身に覚えはなくても何かしてしまったのだろう。 とはいえ、せっかく築いてきたこの関係をむざむざ手放すつもりはない。 何が理由かは判らないが、気を悪くさせたなら謝罪して、関係を修復すれば良いだけのことだ。 「……俺も焼きが回ったな」 以前の自分ならば、決してこんなことは思わなかっただろう。 いや、他の人間が相手なら、今だって間違いなく捨て置いていた。 相手がアリスだからこそ、失いたくないと思うのだ。 この世界の住人は余所者に惹かれずにはおれないという話だが、どうやらそれは自分も例外ではなかったらしい。 何気なく見遣った窓の外は、彼の心とは対称的に、雲ひとつない青空が広がっている。 グレイは微かに嘆息して、和解の対策を練り始めた。 自分の気持ちを、あの空のように晴れ渡らせるために。 一方、その頃。 「アリス、のろけるなら余所でやってくれないか」 クローバーの塔の中庭では、ナイトメアがげんなりしながらそんな言葉を吐き出していた。 部下達の捜索の手から逃れてサボっていた彼の元にアリスが駆け込んできたのは偶然だった。 グレイと共に補佐の立場にある彼女が一直線にこちらに向かって走ってきたのを見たときには、さすがに年貢の納め時かと執務室に連れ戻されるのを覚悟した夢魔だったが、どうもそうではなかったらしい。 アリスは彼の前に座り込んだと思ったら、延々のろけとしか思えないことを話し始めたのだ。 「仕事に没頭している横顔が格好良い」だの、 「考え事をしているときの物憂げな表情に惚れ惚れする」だの、 「ネクタイを緩める仕草が色っぽい」だのという話を聞かされてもコメントのしようがない。 おそらく自分でなくたって、げんなりして同じことを言うだろうとナイトメアはこっそり思う。 しかし目の前の少女はこちらの意見など綺麗に無視して、「でも」とか「だって」とか言いながら頬を赤らめているのだから始末に終えない。 とはいうものの、こんな微笑ましい態度を見せつけられては馬鹿馬鹿しいのを通り越して、応援してやりたくもなろうというものだ。 「アリス、君はさっきものすごい勢いで駆けてきたが、グレイの前からそんな風に立ち去ってきたんだとしたら、今頃奴はショックを受けているかもしれないぞ」 普段は思っていることを絶対に読ませてくれないグレイだが、彼がこの少女をどう思っているかに関しては一目瞭然だ。 だから、今言ったのは推測というより確信に近い。 ナイトメアの言葉に、アリスははっとしたように顔を上げて、それからすぐに表情に後悔の色を滲ませた。 「そ、そうよね。いくらグレイが大人で優しいといっても、あんな態度を取られたら気を悪くして当然だわ。もしそうだとしたら、謝らなきゃ……」 あんな風に逃げ出すみたいに飛び出して来てしまって……もしかしたら許してもらえないかもしれない。どうしよう。 続いて聞こえた言葉は、耳からではなく直接響いてきたものだった。 夢魔である自分相手に気持ちを隠そうとしないアリスは、彼にとって非常に得難い友人だ。 そんな彼女の笑顔を引き出すためなら、恋愛のアドバイスなんて馬鹿馬鹿しいことをするのもやぶさかではない。 可愛げのない部下に助け船を出してやるのは少しばかり癪だったが、これも何かの貸しになると思えば悪い選択ではないだろう。 「謝る必要はないだろうが、誤解は解いておいた方がいいだろうな」 文字通り背中を押して言ってやったら、アリスは悲壮な決意の見える顔で頷いた。 「そんな顔をするもんじゃない。君が笑顔で戻れば、それだけであいつは喜ぶだろうよ」 「無責任なこと言わないでよ」 彼女はしゅんと項垂れたまま、視線だけこちらに向けてそう言った。 「無責任なんかじゃないさ。賭けてもいい。だからほら、早く戻りなさい。ぐずぐずしていたら気まずさが増すばかりだろう?」 自分の言葉に、アリスの気持ちがほんの少し上向いたのが判った。 あともう一押しかと思いながら、ナイトメアはおどけるように肩を竦めた。 「あいつは真剣に謝罪する君を無碍に扱ったりはしないよ。そういう点では律儀な男だからな。もしも奴が君の謝罪を受け入れないようなら私に告げ口すればいい。これでも私は上司だからな。君を泣かせるようなことがあればあいつをクビにしてやると約束しよう」 途端に彼女の顔に笑みが戻った。 「いつもグレイの手を煩わせてばかりの人がよく言うわね」 晴れやかなものではない、微苦笑というようなものだったが、それでも周囲の空気が和らいだのを感じて、彼は笑みを深くした。 やっぱりアリスは笑顔の方が良い。 「でも、そうね。グレイのことだもの、謝ったらきっと許してくれるわよね」 彼女は己に言い聞かせるように呟き、小さく頷いて踵を返した。 すっかり見送る体勢でいたナイトメアだったが、アリスが数歩もいかないところで急に足を止めてこちらを振り返ったのに面食らった。 「ん? どうした?」 「ありがとう、ナイトメア」 花が綻ぶような笑顔でそう言った彼女は、今度こそ、迷いのない足取りで駆けていった。 自分を補佐する部下達の関係が恋愛に発展するのはそう遠い未来の話ではないだろう。 塔の主は密やかな笑みを浮かべ、雲ひとつない真っ青な空に彼らの幸を祈った。 それは、アリスがグレイに「恋人ごっこ」を提案する少し前の話。 病弱な夢魔の祈りは、それから更に幾ばくかの時を経て実を結ぶことになる。 |
原稿の合間にガス抜きとして書きました。 オフラインではできあがっちゃった後の話ばかりを書いてるのでたまには恋愛途上の話もいいかなーと思いまして……。 ガス抜きというか、煮詰まった挙げ句の現実逃避といった感じですが(苦笑) |