手袋

Presented by なばり みずき


 出掛ける支度をしていたブラッドは、ふと視線を感じて振り返った。
 視線の主はアリスに他ならない。この部屋にはブラッドの他には彼女しかいないのだから。
 アリスはベッドの上でぐったり横たわったまま、ぼんやりした様子でこちらを見ている。
 その眼差しに昔の恋人を懐かしむ色がないか反射的に確認したブラッドだったが、そういうわけでもないらしい。
 寝ぼけているのだろうかと訝っていると、彼女はこちらの視線に気づいてやにわに顔を赤らめた。まるで、恋する相手に見とれていたのを見つかったウブな少女のように。
(そうであったらどんなにいいか……)
 ブラッドは咄嗟に胸中で洩れた独白を自嘲気味に笑い飛ばした。
 好かれている自信はあるが、愛されている自信となると少しばかり覚束ない。もちろん愛されていないと思っているわけではないが、彼女の態度を見る限り、その愛が自分のそれより上回っているとは到底思えない。
 だから、そんな埒もないことを考えてしまうのだろう。
 もっと自分を愛して欲しい、と……。
「そんなに熱心に見つめられては穴でも開きそうだな」
 いつかのように茶化して言うと、アリスはカッとしたように目元を染めて、そのまま顔を背けてしまった。それだけでは飽き足らず、赤らんだ頬も手で覆って隠すという徹底ぶりだ。
 照れ隠しにしてもあんまりな態度に思わずこっそり肩を竦める。
(こんなことなら変にからかったりなどせず、黙って見つめられるに任せておけば良かったな)
 ああ言えば意地っ張りなアリスが取る行動など容易に想像できたはずなのに……どうしても揶揄の言葉を止められなかった。
 照れる彼女は愛らしいし、そういう表情を見るのはやぶさかではないが、出掛ける前にこんな風にそっぽを向かれるのはあまり嬉しくない。
 当のアリスは顔を背けたまま、ふてくされたように唇を噛んでいる。
 そうしている間に支度を終えてしまったブラッドは、軽く嘆息して彼女の傍らに腰を下ろした。
 スプリングが軋んでアリスが俄かに身体を強ばらせる。
 きっとこのまま彼が気まぐれに悪戯を仕掛けるとでも思ったのだろう。常日頃の行動を思えばアリスの警戒は無理もない。実際、事情が許すならそうしたいという気持ちもあったから、彼女の勘は見事だと言うべきかもしれない。
「君にあんな熱い眼差しを向けて貰えるなら、穴が開いても一向に構わないんたが……」
 軽口を叩きながら頬に手を添えてこちらを向かせると、愛しい少女は恥じらうように視線を泳がせた。
「……手袋を見てたのよ」
 アリスは言い訳がましい口調でぽつりと呟いた。
「手袋?」
「手袋を嵌める仕草が、何となく目について……それで……」
「私のその所作に見とれてくれたというわけか」
 心なしか弾んでしまった声音に自分でも少し驚いたが、きっとそれこそが本音なのだろう。無意識だからこそ正直な感情が表れてしまったに違いない。
 しかし浮かれるブラッドとは対称的に、アリスは至極不本意そうだ。照れているというよりは、そんな自身に憤ってでもいるように見える。
「私に見とれたのがそんなに不本意か? それとも、それを私に指摘されたことが?」
「どっちもよ。指摘されたのに関しては気恥ずかしいことこの上ないし、見とれたのに関しては……あなた、変に勘ぐって気を悪くするでしょう? 誤解される前に言っておくけど、先生は手袋なんてしていなかったわ。もし私が見とれていたと仮定しての話だけど」
 一度は認めておきながら、この期に及んでそれでもそんな意地を張るのだから、彼女の強情は筋金入りだ。
 ブラッドは笑い出したい衝動を何とか押し留めて、愛する妻を抱き寄せた。
 噛み殺しきれなかった笑いが口の端に浮かんでしまっていたが、そっぽを向いている彼女はきっと気づくことはない。
「見とれて頂けて光栄だよ、奥さん。素直にそのことを話してくれたこともな」
 耳元へそっと囁いての薔薇色の頬に口づける。
 彼女は微かに身じろぎをしたものの、特に抵抗らしいことはせず、
「見とれてたのはあんたにじゃないわ。手袋によ」
 代わりに子供のように頬を膨らませてそう嘯いた。
 微笑ましさと愛しさが胸いっぱいに拡がっていく。
 一体誰がこんな彼を想像しただろう?
 このブラッド=デュプレが、たかだか少女一人の言葉にこんな風に胸を躍らせるなど、自分でさえ思ってもみなかったことだ。

 その日のブラッドは、面倒な仕事も至極上機嫌で片付けた。
 それを見た相棒から、
「旨い紅茶でも手に入ったのか?」
 という質問を投げ掛けられたことからも、そのことが察せられるというものだ。
「紅茶もいいが、私にとってはそれ以上のものだな」
 帽子の鍔を直しながらそう応えた彼の表情は、その言葉通りに幸福そうなものだったという。
 エリオットからその様子を伝え聞いたアリスが、照れくささと気恥ずかしさで、更に頬を染めるくらいに。







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