君を放さない Presented by Suzume
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目が覚めたとき、塔の中にアリスの気配はなかった。 塔の主として、よく集中すればどこに誰がいるかは大体把握できるナイトメアだが、こと彼女に限ってはそこまでしなくても容易にどこにいるか把握することができた。 いつだって余所者のあの少女は、他の誰ともまるで違う、特別な輝きを放っていた。 暗闇の中で蝋燭に火が灯っているように、あるいは夜空に浮かぶ月のように、静かではあるが確かに存在を主張しているのだ。 しかし今日はそれが一切感じられない。 範囲を広げて塔周辺の街並みにまで意識を広げてみたが、やはりアリスは見つからなかった。 「まさか……」 彼は呟くと同時に眉間に皺を寄せた。 小さな胸騒ぎが胸の奥をちりちりと焦がして、嫌な予感はナイトメアの心に瞬く間に広がっていった。 彼女は余所者だ。 白ウサギの強い願いに応じて、本来は違う世界に住まうアリスをこの世界へ引っ張り込む手助けをした。 あの少女が幸せだった頃まで時を戻して、そのまま時を止めて、この狂った時間の世界へと誘った。 アリスがこの世界に――正確には今のこのクローバーの国ではなくハートの国にだが――残ったのは本人の意思によるものだ。 しかし、肝心なことを思い出していない彼女は未だに元の世界へと未練を残している。 無理もない。 アリスの中で元の世界は、いろいろ侭ならないことがあっても幸せだった場所なのだから。 しかし、それでもこちらに残ったのは、もしかしたら彼女自身もどこかで気づいているのかもしれない。元の世界に戻っても、もう愛する姉はどこにもいないのだと。 そうして一度はこの世界に留まることを選んだアリスだったが、時折強い郷愁に襲われていた。 投げ出してしまった罪悪感から素直にそれと認められないようだったが、人の心を読む夢魔の自分には、その声はまるで叫び声のように強く響く。 もっとも彼女が帰りたい場所はあの幸せな午後であって、元の世界に帰ってもそんなものはもうどこにもない。 あたら傷つくだけだと解っていて、どうしてそれを認められるだろう。 ……いや、それは詭弁にすぎない。 単に自分がアリスを手放したくないだけだ。 誰にも――白ウサギや、時計屋や、部下のグレイにだって渡したくない。無論、相手が既に無に帰してしまった彼女の姉だとしても同じことだ。 もしも予想が当たっているならば一刻も早く彼女の元へ向かわなくてはならない。 アリスがあのドアを開いてしまう前に。 ナイトメアは意識を集中して、塔内で人の気配が少ない通路を足早に進んだ。 見咎められたらサボりと思われてすぐに執務室へ連行されてしまうことだろう。 事情を説明すれば解ってもらえるかもしれないが、日頃の行いが行いなだけに、言い訳と思われてしまう危険もある。それに関しては自業自得だが、今は反省している時間さえも惜しい。 塔の階段を駆け下りながら、ナイトメアの頭の中はただ一人の少女のことでいっぱいだった。 面倒臭いとか、だるいとか、普段なら当然思うようなことは一つ残らず消えていた。 彼が、一度実体を夢の中に潜らせ、そこから移動した方が早くて確実だったと気が付いたのは、たくさんのドアがある森に辿り着いてからだった。 無我夢中で駆けてきたためか、血を吐きそうなくらいに胸が苦しい。 ナイトメアは近くの樹に凭れかかって呼吸を整えながら、何とか意識を集中させて愛しい少女の居場所を探した。 近くにいるのであれば、たとえ自分が支配する領土でなくてもアリスを見つけることは難しくはない。ここはクローバーの国で、夢の中ほどではないにしろ、それ相応の力は働かせることが可能だからだ。体調が悪くてもその能力に変わりはない。 焦る気持ちが邪魔をしてなかなか集中力が保てなかったが、彼は迫り上がってくるものを意識から閉め出して、根気強く辺りに意識を巡らせていった。 と、東の方角に一際明るい灯火が見えた。 灯火といっても現実のものではなくイメージだ。 そのイメージはアリスのものに他ならない。 走り通しでもつれる足を叱咤しながらナイトメアは注意深く森の奥へと歩を進めた。 驚かせたりしたら、その反動で彼女がドアを開けてしまわないとも限らない。 いつものように、夢に忍び込むような自然さでそぅっと歩み寄って、こちらへ意識を誘えばいい。 欠片ほどの強引さも覗かせず、まるで自分だけの意思で選んだのだと思わせて……。 夢魔であるナイトメアにとって、夢の中なら他人の気持ちを操ることなど造作もない。 同じ役付き同士ならともかく、余所者とはいえ相手は心に迷いを持つただの少女なのだ。 そうして、彼は今までもアリスに対して、この世界へと留まるよう働きかけてきた。 己のもてる能力を使ったというだけだから、別に卑怯だとは思わないし、罪悪感も感じない。 ナイトメアが自分に課した制約はただ一つ、彼女の他人に対する気持ちに対しては何の手も出さないということで、その禁忌は未だ犯していなかった。 それは即ちアリスの姉に対する気持ちにも働きかけたりしてはいないということだ。 そうするのが一番手っ取り早く、彼女をこの世界に留まらせる決意を促せる方法だと解ってはいたが、その一線だけは決して越えなかった。 重い足取りのまま進んでいったナイトメアは、大きな樹の根元に跪いているアリスの姿を見つけて小さく安堵の息を吐いた。 近くのドアは、ナイトメアの気配を察知したためか、今は沈黙を守っている。 「そうだ、そのまま大人しくしていろ」 カラフルなドアに酷薄な眼差しを向け、声には出さずに呟いて、彼はゆっくり愛しい少女へと歩み寄った。 パキリと小枝が音を立てて、それに気づいたアリスが振り返った。 「ナイトメア!? あなた、どうしてこんなところに……」 驚いたように見開かれた目には罪悪感などは見受けられない。 「間に合った……」 「何が?」 この期に及んで誤魔化そうとする彼女に少し苛立ったが、流れ込んでくる感情はこちらを心配するような色でいっぱいに染め上げられている。何かを誤魔化そうとか、言い訳をしようとか、そんな気持ちは露ほども感じられない。 「……ここに来たということは、またドアに呼ばれたんじゃないのか?」 ナイトメアは訝しく思いながら、翠色の目をまっすぐに見つめた。 どんな小さな動揺も見過ごさないよう、アリスの心に意識を集中させる。 しかし、流れ込んできたのは予想とは全く見当違いの言葉だった。 (どうしてここにいるのよ!? 誰かが話したの? でもドアに呼ばれたとかわけ解らないこと言ってるし、こいつが何か勝手に勘違いしたのかしら……) 「ドアに呼ばれて来たんじゃないのか? 元の世界に帰ろうと……」 思ったことをそのまま口にしたナイトメアだったが、次の瞬間、激しい後悔に見舞われた。いや、二の句を継ぐ間もなく叩かれた頬の熱さによってというべきかもしれない。 「そんなことあるわけないでしょう!? 私はもうここに……あのクローバーの塔に残るって決めたのよ!」 (それが誰のためか、解らないあんたじゃないでしょう!?) 直接紡がれた言葉と、流れ込んでくる言葉は綺麗に繋がっていて矛盾はまるでなかった。 驚きに目を瞬かせて、ナイトメアはまじまじと目の前の少女を凝視した。 アリスは引っぱたいただけでは足りなかったのか、更に彼の足を踏みつけて、あっというまにそっぽを向いてしまった。 しかし飴色の髪の隙間から覗いている耳は紅く染まっていたし、何よりも流れ込んでくる彼女自身の声が、それがどういう想いによるものかを雄弁に物語っていた。 (側にいたい、手助けしたいと思うから、いろいろ振り切って残ったっていうのに、どうして解ってくれないのよ? 一から十まで説明しないと解らないわけ? あぁっ、馬鹿なこと言った。口が滑ったとしか思えないわ。どうせあんたのことだから聞き耳立ててるんでしょう? ほら、何とか言いなさいよ!) 心の中で一方的に捲し立てて、ちらりとこちらを振り返る。 自己嫌悪と、ほんの少しの期待を滲ませた眼差しに、彼は自分の表情が緩んでいくのを自覚した。 恋愛は面倒だと言っていた。面倒だから、決して御免だとはっきり告げられた。 伝わってくる思いは頑なで、だから無理強いはしないと決めた。 たとえ心はなくても、結婚という形で繋ぎとめて、近くにいてくれさえすればいいと、確かにそう思っていたはずなのに……。 「それは、つまり私のことが……」 「そういうことは聞かないのがマナーでしょう!?」 噛みつくように言う姿が虚勢だというのはもうわかってしまった。 それならばもう遠慮することはない。 素直じゃないアリスだから、もしかしたら暴れて抵抗するかもしれないけれど、それでももう抑えきれなかった。 ナイトメアは愛しい少女の腕を掴んで引き寄せて、半ば強引にその華奢な身体を抱きしめた。 夢の中で味わうのとは違う、確かな質量と温もりに胸の奥が熱くなる。 普段より大きな音で時を刻む針に気付いたのか、腕の中でアリスが身じろぎした。 「ねぇ、苦しいわ。そんなに強く抱きしめなくても、逃げたりしないから……」 「あぁ、でももう少しだけこうしていさせてくれ。これが夢ではないのだと実感しているところなんだ」 「そんなの、塔に帰ってからいくらでもできるでしょう? 顔色も良くないし、休んだ方が良いんじゃない?」 彼女はそう言って、背中をあやすように撫でさすってくれた。 小さな手が案じるように行き来する、その感触がたまらなく嬉しい。 人の醜い感情を垣間見て安堵するのとは全く違う安らぎが身体中に広がっていく。 彼は自分が初めて「幸せ」というものに触れたのだと思った。 名残惜しい気分で腕を緩めながら、至近距離で見上げてくる愛しい少女に顔を寄せる。 「キスしたい。してもいいか?」 「だから、そういうのは聞かないでってば」 (いちいち聞いたりしないで、してくれていいのよ。そうしたら、雰囲気に流されてあげるから) 口振りや表情は渋々といった態を装っているが、胸に直接響いてくる声は満更でもなさそうで、ナイトメアは意地っ張りなアリスに苦笑しながら、有難くその言葉を実行させてもらうことにした。 触れた唇は柔らかで、今まで口にしたどんなものよりも甘やかだった。 今まで交わした口づけとは明らかに違った。気持ちが伴っているか否かが大きく作用しているからだろう。 ずっとこれを味わっていられるのなら、煙草なんて要らないと思えるくらいの甘美さに頭の奥がぼぅっとなっていく。 ナイトメアは角度を変えて、その甘い果実を啄むように味わった。 まるで初めてのキスみたいに胸を踊らせている自分に、どうか彼女が気付かないでいてくれますようにと、祈るように思いながら。 「それで、君は一体何しにあんなところへ行ったんだ?」 塔へ帰る道すがら、ナイトメアは胸に巣くっていた疑問を口にした。 「何しにって……別に、何でもないわよ」 微かに頬を染めながら、アリスがぷぃっとそっぽを向いてはぐらかした。 心を覗いて見ようにも、ちらちらとこちらを睨む眼差しに牽制されて侭ならない。 おまけに、 (無理に読んだりしたら絶対に許さないわよ!)とまで脅されては為す術もない。 何となく釈然としないナイトメアだったが、これ以上詮索して嫌われでもしたら元も子もないので、ここは仕方なく引き下がることにした。 後ろめたいようなことではなさそうだから、いつか気が向いたら話してくれるだろう。 そして、その機会は思ったより早く訪れた。 食卓に並べられたキノコ料理によってだ。 「アリスがわざわざ辞典で調べて、呼吸器に良いというキノコを探して来てくれたんだそうですよ。野菜は嫌だとか好き嫌いばかり言っていないで、残さず食べて下さいね」 調理人から聞いたという話を披露しながらグレイがにこにこと食卓に皿を並べていく。 部屋の隅では顔を赤くしたアリスが素知らぬ振りを決め込んで書類を捲っていた。 気味が悪いと敬遠していたはずのあの森に、自ら足を運んだその理由は、間違いなくこれだ。 (残さずしっかり食べなさいよね) ちらりと向けられた視線と伝わってきた声に、ナイトメアは笑みを深くして食事を開始した。 調子に乗って食べ過ぎた彼が、暫く寝込むことになったのは、また別のお話。 |
なんかもぅずいぶん前からいろいろ萌えを投下して頂いてるので 少しでもお返しになればと、S名さんのために書き上げたナイトメア×アリスです。 がっ頑張りました、が……難しかったです……。 ナイトメア×アリスというよりはアリス×ナイトメアっぽい気がするのは気のせいです(またか) そして、どうしてもしっとり終わらせることができなかったことをここでお詫びさせて頂きます。 何と言いますか、オチを付けなくてはいけないような気分にさせられてしまったのであります(笑) |