ヤキモチ

Presented by Suzume


 コンクールが終わった後も、香穂子は他の参加者達との友好関係を保っていた。
 物怖じしない性格ゆえか、友人の幅は極端に広い香穂子だったが、特にコンクール参加者達とは密につき合っているのが彼女の言葉の端々から窺える。
 確かに彼らは音楽科の中でも優秀な生徒達で、音楽の楽しさに目覚めたばかりの香穂子にとっては良い刺激になるのだろう。
 金澤は、だから香穂子が楽しげに彼らの話をするのをただ黙って聞くのが常だった。
 しかし、彼女は知らない――彼らが香穂子と関わることによって、どれだけそれぞれの音楽に色気が出てきたのかを。
 連中の心の中に自分への仄かな恋心があるだなんて、香穂子はきっと露ほども気づいていないのだ。
 やれ火原がこんな話をしただの、月森からこんなCDを借りただのという話を聞くと、彼らも彼らなりに香穂子の気を引きたいのだな……と微笑ましく思えることもある。
 今日も今日とて香穂子の可愛らしい唇からは恋敵予備軍の名前が飛び出してきていたが、金澤はまったく意に介することなく、適当に相槌を打ちながら彼女の話を聞いていた。
 香穂子が彼らに友情以上の感情を抱いていないことは明らかだから慌てる必要はない。
 それよりも自分の下らない嫉妬で、彼女が連中から吸収するであろう様々な可能性の芽を摘み取ってしまう方がよほど恐ろしかった。
 あるいはどこかで高を括っていたのかもしれない。
 自惚れ屋と笑われそうだが、彼女が自分以外の男に靡くことはないだろう、と。
「それで、土浦くんはどうせだから一緒に行かないかって」
 だから、その言葉を聞いた時も金澤はさして気に留めなかった。
 どうせ断るだろう。
 いくら香穂子が鈍くても、他の男と二人きりで出かけるほど迂闊な真似はしないだろうと――そう思って軽く聞き流していたのだ。
 だがしかし、次の瞬間、金澤は信じられない言葉を聞いた。
「生でプロの演奏を聴く機会なんて今までなかったし、せっかくだから行ってみようかなって思うんだけど……」
「あちっ」
 思いもかけなかった恋人の台詞にくわえていた煙草が落ちて、金澤は慌ててそれを拾い上げて灰皿に押しつけた。
 微かに散らばった灰を払っていると、
「大丈夫ですか? 火傷しなかった?」と香穂子が心配そうに覗き込んできた。
 まったく、誰のせいでこんなことになったと思っているんだか。
 香穂子は自分の不用意な発言がこういう事態をもたらしただなんてまるで気づいていない様子で、金澤の手を取って赤くなっているところがないか見ている。
 熱いと言ったのは反射的なことで、別に本当に熱かったわけではない。
 それを証拠に火は金澤には触れていなかったし、煙草が落ちた白衣の腿あたりは少し茶色く変色しただけで穴も開いていない。
「大丈夫、火傷なんてしてないから」
 げんなりしながら言う金澤に、香穂子は安心したように大きな溜息を漏らした。
「びっくりした。人の話聞いてる振りしてうたた寝でもしてたんですか?」
 非難めいた言葉の割に口調は穏やかだ。
 怪我がなくて良かったと思っているのが伝わってきて、金澤は思わずつられて微笑みそうになったが、先ほどの会話を思い出して慌てて表情を引き締める。
「先生?」
 突然眉間に皺を寄せた恋人の様子に、香穂子はちょこんっと小首を傾げた。
「あのなぁ、日野」
「はい?」
「土浦と出かけるって……お前さん本気か?」
「は?」
 何を言われているのかさっぱり解らない、というように香穂子が目を丸くする。
 この香穂子の反応にはさすがの金澤も思わず脱力しそうになった。 
 ここまで鈍いと犯罪級だ。
 心の奥で土浦に同情しながら、こっそり溜息をつく。
「だからな、つまり……」
 どういう風に言えばこの鈍感少女に理解させることができるだろう。
 下手なことを言えば、自分が狭量なヤキモチ焼きだと思われかねない。
 いや、どう取り繕ったところで自分がみっともなく嫉妬していることには違いないのだが、それはそれとして。
 適当な説明の言葉を探しながら舌打ちしたい気分に襲われた。
 香穂子はきょとんっとしながら金澤の次の言葉を待っている。
 彼は半ば自棄のように溜息をつきながら香穂子の瞳をまっすぐ見つめた。
「俺たちの関係は内緒なんだから、一緒に出かけるなんて真似したら土浦にだって失礼だろう」
 好きな女がデートの誘いに応じてくれて、期待しない男はいないだろう。
 まったく、何が悲しくて恋敵の擁護をしてやらなければならないんだ。
 内心で毒づいたところで香穂子に伝わるはずもなく、彼女は瞬きを一つして、たっぷり一呼吸おいてから盛大に吹き出した。
「先生、いくら何でも気の回しすぎですよ」
 からからと笑いながら香穂子は金澤の言葉を一蹴した。
 土浦、気の毒に……。
 金澤は思わず視線を泳がせて心の中で合掌した。
「お前さんはそうかもしれんが、やっこさんの方はどうか解らんだろう」
 自分の心配が杞憂だということは重々承知している。
 香穂子は――彼には気の毒なことこの上ないが――土浦のことなど眼中にないのだし、向こうも好きな相手に無理矢理迫るほど無粋な男ではない。
 だからといって自分の恋人を他の男とホイホイ出かけさせてやるほどお人好しにはなれなかった。
 金澤の複雑な胸の内に呼応するように、香穂子も微妙に表情を曇らせた。
 何かを考えるように視線を彷徨わせて、ふと思い当たったようにハッと顔を上げた。
 それとなく仄めかした程度だったが、もしかすると金澤の言葉から土浦の自分に対する想いを察したのかもしれない。
 内心穏やかではなかったが、金澤はやれやれというように肩を竦めて白衣のポケットから煙草を取り出した。
 と、香穂子は拗ねたような顔で唇を尖らせて、金澤の右手からライターを取り上げた。
「先生、もしかして、私の話ちゃんと聞いてなかったでしょう?」
 コトリと音を立てて机の上に置かれたライターを横目で見ながら、
「聞いてたよ、土浦からコンサートに誘われたんだろう?」と答える。
「ほら、やっぱりその前をちゃんと聞いてない」
「その前?」
 目を瞬かせた金澤に、香穂子はこれ見よがしに溜息をついた。
「だから、チケットは4枚あるんですってば。土浦くんの分と、土浦くんのお姉さんの分と、あと2枚」
 あと2枚――その言葉の意味するところは、もしかして。
「隠れてつき合ってるからデートなんてなかなかできないでしょ。でも土浦くんが一緒だったら……デートっていうのは無理があるけど、一緒に出かけても不自然じゃないじゃないですか。だから、せっかくだからお言葉に甘えちゃおうかなって」
 香穂子はそう言って、机の上のライターを指先でつついた。
「それはつまり……土浦は俺たちの関係を知ってるってことか?」
 声を潜めて聞いた金澤に、香穂子は小さく頷いた。
 どういう経緯で彼に知れたのかは気になるところだが、今はそれは問題ではない。
 香穂子は期待と不安が入り交じった目で金澤をチラチラと見上げてきていた。彼の答えを待っているのだ。
 土浦の姉も星奏学院の卒業生だから面識はある。どちらかと言えば親しい生徒の一人だったと言えるだろう。
 卒業してしまった今では接点はほぼないとはいえ、弁の立つ彼女に弱みを握られるのはできるなら避けたいところだが……。
「クラシックコンサートねえ」
 生でオーケストラの演奏を聴くというのは、音楽の道を歩み始めた彼女にとってとてもプラスになるに違いない。
 加えて、香穂子に想いを寄せているはずの土浦が、自分の思いを犠牲にしてまで一緒にどうだと誘ってくれたというのなら、その男気にも答えてやるべきだろう。
 そして何より、一緒に出かけたいという彼女の望みも叶えてやりたい。
 そうなったら答えは一つしかない。
 金澤はしょうがないなというように苦笑して、
「たまにはお前さんのわがままに振り回されてやるか」と言って香穂子の指先からライターを抜き取った。
 彼女は嬉しそうに顔を綻ばせて、勢い余ったように金澤に抱きついてきた。
「先生、大好き!」
「わっ、こら、危ないって」
 慌てて煙草を持った手を挙げて、金澤は空いた手で香穂子の腰を抱く。
 まさか自分の半分ほどの年の恋敵に花を持たせられるとは思わなかったな、と心中穏やかではなかったが、香穂子がこんなに喜んでいるのを見たら、自分の些細なプライドなどどうでも良くなってしまった。
 どちらからともなく交わした口づけは、金澤の胸の内とは対称的に、甘くて優しいものだった。


 コンサート当日、香穂子と金澤の隣は空席だった。
 好きな女のデートに同行できるほど、土浦は無粋でも自虐的でもなかったらしい。
 あるいは最初からこれを狙っていたのかもしれない。
 金澤は粋な計らいをしてくれた教え子に、心の奥でそっと感謝した。








恋愛というのは勝ち負けではありませんが、今日のところは香穂子ちゃんの1本勝ちでしょうか(笑)
そして直接的な出番はないのに土浦くんは気の毒なほど「いい人」です(私の中の土浦くん像が「いい人」なので)
思っていたより金澤先生がヘタレになってしまったのと甘度も低めなのが悔やまれます。
もう少し精進しなくてはですね(汗)
ちなみに同人誌「Secret Love」掲載の「Best Friend」とは繋がりのある話ではありませんので、念のため。

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