最後のチョコレート Presented by Suzume
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2月は一般的に受験シーズンだ。 普通科と音楽科を併せ持ち、生徒の約半数が付属の大学に進む星奏学院でも、この月になると3年生は試験休みという名目で休みになる。 その日、普通科3年の日野香穂子はやや緊張した面持ちで校門をくぐった。 半月ぶりの学校はいつになくよそよそしく感じられて、何だか少し敷居が高い。 最後にきたのは1月末で、その時は卒業式の予行演習などが行われたせいかもしれない。 それとも今が授業中で、学校全体が静まり返っているせいだろうか。 静かとはいっても、音楽科の校舎からはいつものように楽器の音が聞こえているし、校庭では普通科の生徒が体育の授業を行っているのだから静寂に包まれているというわけではない。 ただ、生徒であるはずの自分が、こうして授業中の廊下を歩いているというのは、まるで異邦人にでもなったようで落ち着かないというだけの話だ。 香穂子は昇降口で靴を履き替えて、静まり返った廊下を、足音を忍ばせて進んでいった。 彼女が足を向けたのは、自分の教室や職員室ではなく、音楽室や図書室などのある特別棟だ。 この時間ならば授業の受け持ちはなかったはずだから、きっと彼は音楽準備室にいるに違いない。 香穂子は辿り着いた部屋の前で深呼吸を一つして、コンコンッと軽くノックした。 「はーい、どうぞ」 間延びした声が室内から聞こえてきたのを確認して、彼女は静かにドアを開けた。 「なんだ、日野か」 あからさまにほっとした顔をした金澤に迎えられ、思わず苦笑が漏れる。 この寒いのにわざわざ窓を開けているところを見ると、隠れ煙草でもやっていたのかもしれない。入ってきたのが香穂子ではなく、金澤の上司に当たる先生だったらきっと大目玉を食らっていたことだろう。 「先生、校内は禁煙ですよ」 近寄って上目遣いで言ったら、彼は引きつった笑みを浮かべて、 「何のことだ?」とそらっとぼけた。 誤魔化すのが下手なのか、それとも香穂子に特別嘘をつく必要を感じなかっただけなのかは解らないが、金澤のこういうところは可愛いと思う。自分の倍近い年齢の男性に「可愛い」なんて言葉を使うのはおかしいかもしれないけれど。 気を取り直して室内を見回した彼女は、机の脇に無造作に置かれた紙袋に気がついて目を止めた。 「今日はどうした?」 声をかけられてはっと我に返った香穂子だったが、視線は紙袋に引き寄せられて動かない。 「あぁ、それは……」 「お前さん、うちの大学の推薦取れてただろ。受験の報告じゃなきゃ、一体何でまた休みだってのに学校なんか……」 不意打ちで核心を衝かれて思わず言葉が出てこない。 それもこれも、みんなあの紙袋のせいだ。 中身が何かわかるだけに、気になって気になって仕方ない。おかげで用意していた言い訳が頭の中でバラバラになってしまった。 本当はもっとスマートに振る舞うつもりで、頭の中でいろいろシミュレーションしてきたというのに、何もかも台無しだ。 恨みがましい気分で唇を尖らせて、軽く息をついてから金澤に向き直る。 と、そこにはとてつもなく人の悪い笑顔があって、香穂子は再び言葉を失った。 「せ、先生?」 ひきつった笑顔で問いかけたら、金澤が小さく吹き出した。喉の奥をクツクツと鳴らして、肩を小刻みに震わせている。 「お前さんなぁ、そんなに心配そうな顔しないでも大丈夫だよ」 近寄ってきた彼は、いつものように香穂子の頭をぽんぽんっ、と撫でた。 「し、心配そうな顔なんてしてません!」 反射的にそう言ったものの、少々ばつが悪い気分なのは、きっと胸に宿った微かな嫉妬を見透かされてしまっていたためだ。 あと1ヶ月もすれば卒業なのだ。 そうしたら、大手を振って金澤の隣に立つことができる。 少なくとも、今の時点でだって、彼に憧れてバレンタインにチョコを渡すしかできない女生徒達より、自分は何歩もリードしているのだ。ヤキモチをやくなんて馬鹿馬鹿しいことだと解ってはいる。 解ってはいるのだが……嫉妬心というのは自分で思うようにコントロールできない、どうにも厄介なものなのだ。 「それじゃ、今日は何しにきたんだ?」 ニヤニヤしながら言われて、地団駄を踏みたい衝動に襲われた。 彼は香穂子が何のために学校にきたか理解した上で、それを言わせようとしているのだ。 それも、ちゃんとした口実を用意してきているだろうというのまで全て承知の上で言っているのだから、人が悪いとしか言い様がない。 どんなに背伸びしてみせたところで無駄だと言われているようで無性に腹立たしい。 いっそこのまま帰ってしまおうかとも思ったが、それじゃぁせっかく学校まできた意味が無くなってしまうので、香穂子は悔しい気持ちを何とか宥めて顔を上げた。 「学割の証明書貰いにきたんです。春休みに天羽ちゃんと卒業旅行に行くから」 「ほうほう」 面白がっている響きにかちんとしたが、ここで爆発してしまっては元も子もない。 香穂子は深呼吸してまっすぐに彼を見つめた。 「それで、お世話になった先生に義理チョコを届けに」 義理チョコのところをわざと強調したのはからかわれたことによる負け惜しみなどでは決してない。彼女なりにちゃんと理由があってのことだ。 香穂子はバッグの中からシンプルな包装紙でラッピングされたチョコレートを取り出して、神妙な顔でそれを金澤に差し出した。 「3年間……先生に直接お世話になったのは2年間ですけど、ありがとうございました」 「……ありがとな」 さっきまでのふざけた雰囲気を引っ込めて、金澤も真面目な顔でそれを受け取る。 「お前さんから貰う、最後の義理チョコだな」 感慨深げに言われた言葉に、香穂子は思わず目が潤みそうになった。 あと1ヶ月して香穂子がこの学校を卒業したら――教師と生徒でなくなったら、やっとこれまで抱き続けていた思いが叶うのだ。 義理チョコというのを強調したのは、来年からは堂々と本命チョコとして渡すことができるのだというアピールだったのだが、金澤は皆まで言わなくてもその気持ちを理解してくれていた。そのことが何より嬉しい。 「おいおい、今からそんな顔してどうするんだよ。卒業式までまだ1ヶ月もあるんだぞ?」 俯いてしまった香穂子に気づいて、金澤が苦笑しながら肩を叩いた。 泣いてはいないけれど、泣きそうになるようなことを言ったのは金澤だ。 香穂子は俯いたまま、小さく鼻をすすった。 「泣くようなことじゃないだろ。ほら、とりあえず落ち着けって」 完全に勘違いした彼は、白衣のポケットからハンカチを出して香穂子に差し出した。 先程からかわれた意趣返しにはなったが、どうにも引っ込みがつかなくなってしまい、仕方なくハンカチを受け取って目元を覆う。 宥めるように肩を叩いてくれる金澤の手が優しくて、もう少しだけ甘えたい気分になったのも、香穂子が泣いていないことを言い出せなかった理由のひとつかもしれない。 窓が開け放された室内は肌寒かったけれど、胸の奥には温かい感情が広がっていた。 こうして高校生活最後のバレンタインは、香穂子の胸に甘い思い出となって残った。 そして金澤にとってもまた、今年のチョコは、生徒から貰ったチョコの中では一番深く心に刻まれたものとなったのだった。 |
バレンタイン当日より遅れること1週間。 最初に思いついて8割方書き上がっていた話を丸々ボツにして、一から書き上げた代物です(笑) どうしてもこの2人のバレンタインが書きたくて頑張りました。 |