季節外れの海

Presented by Suzume


「海が見たいなぁ」
 放課後の屋上でヴァイオリンの練習をしていた香穂子は、ふと思い立ってポツリと呟いた。
 チラっと振り返ると、ベンチで煙草を吸っていた金澤が呆気にとられたような顔でこちらを見ている。
「海なんかすぐそこなんだから、見てきたらどうだ?」
 気を取り直したように金澤はそう言ったが、それは香穂子の求める答えとはあまりにもかけ離れていた。
「そういう意味じゃなくて! もうっ、先生、解ってて言ってるでしょう!」
 言った香穂子もクサイ発言をしてしまった自覚はあった。けれど、そんな風にあからさまに茶化されるとはっきり言って面白くない。
 拗ねるように頬を膨らませた香穂子に、金澤が吐息だけで笑って紫煙を吐き出した。
 微笑んだ横顔は、いつものだらけた雰囲気とは違って、どこか寂しげだ。
「先生?」
「お前さんが卒業したら、もうこうやって放課後を過ごすことはなくなるんだよな」
「え?」
 遠くを見つめたままの台詞に、香穂子は胸がざわついた。
 卒業なんてまだ1年以上も先の話だ。
 それなのに、そんな風に遠くを見つめて、今すぐにも別れが訪れてしまうようなことを言われたら、何だか不安になってしまう。
 心細そうな顔をして自分を見つめる彼女に気づいて、金澤はふっと表情を和らげた。
「そんな顔しなさんなって」
 宥めるように頭を撫でられて、香穂子は努めて笑顔を作った。
「だって、先生が不安にさせるような言い方するから……」
「卒業したら海でもどこでも連れて行ってやれるって思ったんだよ。だがな、それは同時にお前さんとこうして過ごす時間がなくなるってことなんだなって……そう思ってな」
 どこか哀愁を漂わせて微苦笑する金澤に、彼女は小さく溜息をついた。
「卒業したら、今よりもっと一緒にいられるって……そう思ってはくれないんですか?」
「今よりもっと?」
「そう。だって私は普通科だから、学校で先生と過ごせる時間なんて放課後だけじゃないですか。しかも内緒の関係だからこうやって誰もいない時にしか恋人の顔もできないし。でも卒業したら2人の関係をオープンにできるでしょう? そうしたらそれだけ自然に一緒にいられるんですよ」
 胸を張って言った香穂子に、金澤は思わず破顔した。
「相変わらずのポジティブシンキングだな」
「それがコンクールで好成績を修められた秘訣です」
 香穂子は悪戯っぽく笑って言って、それにね、と付け加えた。
「大学に行ったら王崎先輩みたいに上手に時間をやりくりして、母校に入り浸るつもりなんですから。今から覚悟しておいて下さいね?」
 細い指先を眼前に突きつけられ、金澤は一瞬目を瞬かせて――それから盛大に吹き出した。
「ほんと、お前さんには敵わんよ」
 香穂子はその言葉に得意げな顔で微笑んだ。
 彼女の言うのは尤もだ。憂えてばかりいたのでは何も始まらない。
 そう思ったら胸のつかえがすぅっと軽くなった気がした。
 金澤は眩しいものを見るように目を細めると、彼女の薄紅色の唇に掠めるように口づけた。
 香穂子は一瞬だけ驚いたように目を丸くして自分の唇をほっそりした指でなぞってから、それはそれは嬉しそうにヴァイオリンを構えてみせた。
 奏でる曲は金澤の好きなユーモレスクだ。
 いつもより伸びやかなのはきっと彼女の感情がそれだけ乗っているからだろう。
 青空の下、微かに頬を赤らめながら、気持ちよさそうに音を紡いでいく。
 本当に、彼女の可愛らしさには敵わない。
 惚れた弱みと笑わば笑え。
 海が見たいだなんて昔の青春映画みたいなクサイ台詞を言われて、笑い飛ばすどころか、それが彼女の希望なら叶えてやりたいと――この自分にそんなことを思わせるなんて、きっと香穂子くらいのものだろう。
 それほどまでに、自分はこの幼くまっすぐな少女に参っている。
 さっきは「卒業したら」なんて言ってしまったが、次の休日にはドライブがてら海に連れて行ってやろう。
 港町から見える海ではなくて、季節外れの海水浴場に。
 そこならば、きっと教師や生徒なんて枠は取っ払えるに違いない。
 密かに頭の中で計画を練り始めた金澤に気づくこともなく、香穂子は曲を奏で続けていた。
 彼の表情にはもう先ほどの憂いは微塵もなかった。
 高く澄んだヴァイオリンの音を聴きながら、金澤は週末の海水浴場に思いを馳せる。
 思い描いた季節外れの海は、まるで彼女のヴァイオリンの音のように、どこまでも青く澄んだ空が広がっていた。








さりげなく香穂子ちゃんにメロメロな金澤先生でした(笑)
個人的に「惚れた女に振り回されている」男の人が好きです。
しかも相手にそれと気づかれないように振る舞っていたりする様子が尚のこと。
ちょっと短いかな、と思ったんですが、これ以上いじると書きたかった雰囲気と違うものになってしまいそうだったため、
このままにしました。でも、これでも少しは伸ばしたんですけどね(言い訳)

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