猫の恩返し

Presented by Suzume


 それは学校からの帰り道。
 通りに面した公園から聞き覚えのある声がした気がして、若王子は足を止めて辺りを見回した。
 公園と言ってもブランコとすべり台、あとはシーソーと鉄棒と砂場があるだけのこぢんまりした児童公園だ。
 公園の周りをぐるりと囲んでいる植木も背の低いものばかりで、だから若王子はすぐにその人物を見つけることができた。
 小柄なその少女の名前は天野るり。自分が担任を受け持つクラスの生徒で、同じく顧問を担当する陸上部の部員だ。
 明るくて快活な彼女は高等部から外部受験で入ってきた生徒だが、すぐに中等部からの持ち上がりの面々とも打ち解けて、今ではクラスの人気者と言っていい。るりが参加するか否かで課外授業の出席率に大きな影響を及ぼすほどだ。
 その彼女が、なぜだか公園の片隅で、繁みに向かってしゃがみ込んでいる。
 若王子は好奇心に駆られて、そっと足音を忍ばせて近寄った。
「天野さん、何してるんですか?」
「ひゃっ!?」
 こそこそとしている様子だったからこちらもそれに倣ったのだが、どうやら驚かせてしまったらしい。
 彼女は文字通り飛び上がって、それから若王子の姿を認めてほっとしたように胸を撫で下ろした。
「わ、若王子先生……やだ、もう、びっくりさせないで下さい」
 るりの顔が赤いのは、夕陽に照らされているせいばかりではないのだろう。目の淵にうっすら涙が浮かんでいるのを見れば、自分がどれほど彼女をびっくりさせてしまったかが解ろうというものだ。
「すみません、そんなに驚かせるつもりはなかったんですが……」
 若王子は彼女に謝罪をして、
「それで、天野さんはこんなところで何をしているんですか?」と再び質問を繰り返した。
 悪気がなかったことは伝わったらしく、彼女はすぐに気を取り直した様子で繁みの方に目を向けた。
「あそこに子猫がいるんです」
「子猫ですか?」
「そうなんです。なんか、怪我してるみたいで……」
 困った様子で頷いた少女の視線を追ってみれば、確かに繁みの奥に子猫らしいものがちらりと見えた。
 るりは制服が汚れるのも厭わず再びしゃがみ込んで、チチチと舌を鳴らしながら繁みの奥へと手を伸ばした。
 途端にフーッと威嚇するような声がして、彼女が慌てて手を引っ込める。その指先には、引っ掻かれでもしたのか、微かに赤い線のようなものが浮かんでいた。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい、血も出てないし平気です。気が立ってるみたいだし、やっぱりもうちょっと落ち着くの待った方が良いかなぁ……」
 引っ掻かれたことなどまるで気にすることもなく、一心に猫の身を案じている少女の様子に、若王子の胸に温かいものが込み上げてきた。
 彼は少し考えて、ポケットからハンカチを取り出し、長身を折り曲げてそぅっと手を伸ばした。そしてその猫をハンカチで優しく包み込むようにして持ち上げる。猫はフーフー言って怒っていたが、ハンカチでくるまれてしまっているため、それ以上の抵抗はできない。
「はい、一丁上がりです」
 若王子が得意げに言うと、るりは破顔してハンカチごと猫を受け取った。
「先生、ありがとうございます! あの、このハンカチお借りしてもいいですか?」
「構いませんよ」
「じゃぁ、早速この子を病院に連れて行きますね。それじゃ、さようなら!」
 彼女はぺこんっ、とお辞儀をしたかと思ったら、脇に置いてあったカバンを掴んですぐさま走って行ってしまった。
 それはまさに弾丸のような勢いで、さすが陸上部のエースと讃えたくなるほどの素早さだった。
 何だか狐につままれたような気分に陥った若王子だったが、それは即ちそれだけ彼女が必死になっているという表れでもある。
 たかが猫一匹と思うことなく、脇目も振らずに駆けていった少女。
 彼女の優しさになぜだか自分まで救われたような気がして、若王子は小さく微笑んで帰途に就いた。

 そして週が明けて月曜日の朝、登校して職員室に向かった若王子は戸口で待ちかまえていたるりに気づいて目元を和ませた。
「おはよう、天野さん」
「おはようございます」
 彼女は礼儀正しく頭を下げて、言葉を探すように目を泳がせた。
「僕を待っていたの? こないだの猫のこと?」
 るりが自分を訪ねてくる用事と言って、今は他に思い当たることはない。
 若王子が水を向けると、るりはなぜだか気まずそうな顔で頷いた。
「もしかして、怪我がそんなに酷かったとか?」
「いえ、それは大丈夫です。傷もそんなに深くなかったし、二週間程度で治るだろうって。ちょうどお医者さんにきてた人が里親捜しも手伝ってくれるって言ってくれたんで、相談に乗ってもらうことにしました」
 るりは慌てた様子で彼の問いを否定してそう言った。
 猫の怪我も大したことはなく、里親捜しのあてもできたというのなら、彼女の憂慮していることは一体何だというのだろう。
 疑問に思いながらも急かさずに待っていたら、るりは何か決意したようにきゅっと唇を引き結んでこちらを見上げてきた。
「それで、先生からお借りしたハンカチなんですけど、血がべったり着いてしまって……その、何度洗っても落ちなくて……」
 つまり、それで彼女はずっと申し訳なさそうな顔をしていたということらしい。
 若王子はるりの気を少しでも軽くしてやるべく表情を和ませて、
「気にしなくていいですよ」と言って彼女の頭を撫でてやった。
「でも……」
「あの猫をあのままにしておくことを考えたら、僕のハンカチなど安いものです。命の重みとハンカチの価値を考えたら、どちらが大事かなんて言うまでもありません」
 にこやかに告げた若王子に、るりは申し訳なさと安堵が入り交じったような顔をして、小さくひとつ頷いた。
 それから不意に鞄の中から何か取り出して、すっとこちらに差し出してきた。
「それで、これ、代わりになるかわからないんですけど……」
 彼女の手の上には真新しいハンカチが乗っていた。
「気持ちは嬉しいですけど、受け取れません」
 若王子自身、そんなつもりでハンカチを使ったわけではないし、生徒から個人的に物をもらったりしたら頭の固い教頭に何を言われるかわかったものではない。
 しかしるりは彼の答えを予測していたようで、
「私からじゃなくて、あの猫からです」と、それは可愛らしく微笑んでそう言った。
 これには若王子も面食らってしまった。
「猫から、ですか?」
「そうです、猫からです。命の恩人の先生に、渡してほしいって頼まれたんです」
 伸び上がるようにして長身の若王子をまっすぐ見つめ、彼女はきっぱりと言い切った。
 そして呆気に取られた若王子の手にそれを押しつけると、
「じゃぁ、先生、ありがとうございました!」と、いつぞやのようにすぐさま踵を返して行ってしまった。
 猫からと言いきるその突拍子のなさに何だか笑いが込み上げてくる。
 何気なくハンカチに目を落としたら、間にメモのような物が挟まっているのに気づいた。
「おかげで助かりました。ありがとうニャ」
 几帳面な文字で綴られた言葉の最後には、あくまで猫からというのを強調するためなのだろう、申し訳程度に語尾に「ニャ」なんてつけられていて、それにますます微笑みを誘われた。
「若王子先生、そんなところに突っ立ってどうしたんですか?」
 通りかかった教頭に訝しげに尋ねられた若王子は、
「猫からの恩返しを受けていたところです」と柔和な顔に笑みを浮かべてそう答えた。
 それはあながち嘘だとも言い切れない。
 彼は猫のように素早い身のこなしの女生徒を思いながら、白衣のポケットにハンカチをしまったのだった。








こちらは拍手の御礼用掌編としてアップしていたものです。
コンテンツもできてないのに見切り発車でアップしてしまったのでした。

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