もしも、いつか Presented by なばり みずき
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それはある巡察の最中のこと。 「え、本当に?」 「ああ、どれでも好きなのを選ぶといい」 小間物屋の店先で一組の若い男女がそんな会話を交わしているのが目に留まった。恋人同士か、はたまた夫婦か。どちらにしても、寄り添う二人はいかにも幸せそうな風情で微笑ましいことこの上ない。 訳あって男の姿に身をやつしているとはいえ、千鶴だって年頃の娘なのだ。仲睦まじい男女の様子を見て少しばかり羨ましく思ってしまったとしても無理ないだろう。 「いいなあ……」 我知らずそんな呟きを洩らしたのと、 「何が、いいなあ、なんだ?」 聞き慣れた声が降ってきたのはほぼ同時だった。 飛び上がらんばかりに驚いたものの、咄嗟に悲鳴を上げなかったのは我ながら上出来だった――と密かに思う。 どきどきする胸を押さえつつ振り返ると、いつのまに戻って来たのか、そこには興味深そうな表情をした原田左之助の姿があった。 「原田さん……びっくりさせないで下さい」 「いや、別に驚かそうと思ったわけじゃねえんだが……」 半ば八つ当たりのような言い分だったにも拘わらず、原田は悪かったな、と苦笑混じりに頭を撫でてくれた。子供扱いで誤魔化されたような気がしないでもなかったが、原田のこれはもう癖のようなものだ。他意がないことは解っているのでいちいち目くじらを立てるのも馬鹿馬鹿しい。 そう、たとえ胸の奥がチリチリと痛んでも。 「それで?」 「はい?」 「いいなあって言ってたじゃねえか。何か欲しいもんでもあるのか?」 そう言って、千鶴の視線を追うように通りの向かいに目を向ける。 「小間物屋、か……」 「はい。今、とても仲睦まじい方々がいたので、ちょっと羨ましくなってしまって」 気恥ずかしさも手伝って少し早口になってしまった。 何気なく視線を巡らせたが、小間物屋の中に入っていったのか、あるいは別の店に行ってしまったのか、店先には既に男女の姿はない。 (私もいつか……なんて、鬼の身では贅沢すぎる望みだよね) 自らを鬼だと称する風間達は、これまでに幾度となく千鶴を狙って襲撃を仕掛けてきた。女鬼は希少で、より濃い血脈を残すために必要なのだという。人間を虫けら同然だと言い放つ彼らの実力は、確かに大きな口を叩くだけのことはあった。相対したのが新選組幹部でなかったら、きっと自分は今頃彼らに連れ去られてしまっていたことだろう。 もしもこの先、行方不明の父が見つかって新選組を離れるようなことになったとしても、もう江戸にいた頃のような平穏な生活は望めまい。せいぜい彼ら鬼達に見つからぬよう、息を潜めて暮らすしか――。 知らず沈んだ表情になっていた千鶴を励ますように、大きな手がぽんっと肩に乗せられた。 「どれ、ちっと覗いてみるか」 「え?」 「おまえだってたまには娘らしくああいった店を覗いてみてえだろ。だいたい、京に来てからろくに外を出歩けず、ずっと屯所に押し込められてたんだ。少しくらい気晴らししたってバチは当たらねえだろうさ」 原田は何でもないことのようにそう言うと、からりと笑って歩き出す。一瞬ぽかんとしてしまった千鶴だったが、すぐに我に返ると、大慌てで浅葱色の羽織を掴んで引き止めた。 「駄目ですよ、巡察の途中なのに、そんな……」 巡察の最中、こんな道草を食ったことが土方に知れたらさぞや厳しく叱責されるに違いない。自分が叱られるだけでも怖ろしいのに、原田まで巻き込むことになったらと思うと血の気が引くばかりである。 「なに、御用改めのついでってことにしとけば問題ねえよ。どこの商家を改めるかなんて細けえことはいちいち決められてねえんだからよ」 「そういうわけにはいきません」 原田の提案はとても魅力的なものだ。少しくらいなら許されるのではないか、と思わず誘惑に負けてしまいそうになるほどに。 けれど、やはりけじめはけじめだ。 そういう融通をしてもらうのは気が引けるし、何より隊務の足を引っ張るようで申し訳ない。 「原田さんがご厚意で仰って下さっているのは嬉しいですけど、こうして巡察に同行させて頂いているだけでもお手間を取らせてるのに、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきません」 そうでなくても父親の行方も見つけられず、おまけに厄介な連中にまで付け狙われて、役に立たないどころか負担ばかり強いてしまっているというのに……。 まっすぐ見上げて訴えると、原田は微かに目を瞠り、それから「しょうがねえな」と呟いて口の端を持ち上げた。まっさらな笑顔ではなく苦笑いの態だ。 「おまえがそういう 「はい……え?」 頷きかけて、ふと気づく。 「別の機会、ですか?」 「ああ、そうだ。今度は巡察中じゃなく、俺が非番に時にでも連れて来てやるよ。それなら文句ねえだろ」 予期せぬ方向に話題が横滑りしている気がする。最初はそういう話ではなかったはずだ。 千鶴は思わぬことに目を白黒させたが、当の原田は全く悪びれた様子もなく、その精悍な貌に茶目っ気たっぷりの笑顔を閃かせている。 「さすがに堂々と着飾らせてやるのは無理だが、女ってのはああいった店を冷やかすだけでも気分が浮き立つもんなんだろ? 千鶴は普段から頑張りすぎるくらい頑張ってるんだから、たまには少しくらい羽根を伸ばすべきなんだよ。なに、土方さんだって鬼じゃねえんだ、このくらいのことでいちいち目くじら立てたりしねえだろ。もし何やかや言ってくるようなら俺がとりなしてやるから心配すんな」 「原田さん……」 「さて、そんじゃ俺らも他の連中と合流するか」 さらりとそんな嬉しい科白を吐いておきながら、しかし千鶴には一切口を挟ませず、すたすたと歩いて行ってしまう。 一見ぶっきらぼうに見える原田だが、いつだってこんな風に、千鶴が一番喜ぶことをすんなりと見極めて掬い上げてくれるのだ。 (そんな風に優しくされたら……) 千鶴はひとりでに駆け出してしまいそうになる気持ちを抑えるように、胸元できゅっと拳を握った。 原田が優しいのは自分にだけではない。彼は親切な人だから、ちょっと不自由をしている千鶴のことを殊更に気に掛けてくれるのだろう。ただ、それだけの話だ。 すぐに後を追うことも出来ず、何気なくもう一度小間物屋へ視線を転じると、ちょうど先ほどの男女が店から出て来たところだった。女の髪には先刻まではなかった可愛らしい簪が揺れている。 自分が本当に羨ましかったのは、ごく普通の娘らしく着飾れることではなくて、好いた男に簪を見立ててもらったり、その相手のためにめかしこんだりすることが出来る境遇だったのかもしれない。 (叶わないかもしれないけど、夢を見るくらいなら……) 言い訳がましく胸の裡で呟いてから、未練を振り切るように歩みを早くする。 原田は少し先で千鶴を待ってくれていた。その眼差しは千鶴ではなく、そのもっと後方へと向けられている。ちょうど千鶴が見ていた二人連れが歩いて行った方角だ。 「……千鶴もいつか、惚れた男のために着飾ったりするようになるんだろうな」 「え?」 どこか物憂げな呟きは、しかし風に攫われて千鶴の耳には届かない。 「原田さん?」 訊き返すように問い掛けるが、原田はすぐにいつもの明るい笑顔で「何でもねえよ」と笑うばかりである。 (もしも、いつか……) 奇しくも同じ 二人が密かに胸に抱いたその願いは、数年の後に現実のものとなる。 そして彼らはこの日のことを振り返る度、当時の自分達にこの言葉を伝えたいと思うのだ。 「その |
※ペーパーより再録(初出 2012/03/04 薄桜鬼オンリーイベント【ゆきさくら第五章】にて発行) |