無意識の誘惑 Presented by なばり みずき
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外出先から帰宅した弁慶は、思いも掛けない光景に出くわして、暫し言葉を失った。 軍師としては常に己に対して沈着冷静を強いてきたし、実際に普段はそれを全う出来ていると自負していたのだが、彼女の突拍子もない行動にだけはいつも驚かされてしまう。 彼は軽い目眩を感じながら、愛しい少女に声を掛けた。 「望美さん、そんなところで何をしているんですか?」 そう、どういうわけか、彼女は庵の前に立つ大きな樹の上にいたのだ。それも、着物の裾を膝上までまくり上げて、ほっそりした脚を惜しげもなく晒している。弁慶でなくとも呆気に取られる光景といえるだろう。 「あ、弁慶さん、お帰りなさい!」 無邪気な笑顔で手を振られ、つられて笑顔を浮かべかけた弁慶だったが、すぐに我に返って嘆息した。 「望美さん、危ないですよ」 「大丈夫ですよ。こう見えても、私、木登りは得意ですから」 こちらの心配など露知らず、望美は笑みを深くして手を振ると、すぐに表情を引き締めて視線と身体を枝の先へと向き直らせた。そして、危なっかしい足取りでそろそろと移動し始める。 彼女の視線を辿ってみれば、そこには見覚えのある着物が引っ掛かっている。恐らく望美は、風で飛ばされたあの着物を取るべくこんな無茶をしでかしたのだろう。 せめて帰るまで待っていてくれれば、彼女自身があんな危ない真似をしなくとも、自分が梯子を掛けて取ってやるのに。 とはいえ、望美はもう既に樹の上に登ってしまっている。彼に出来るのは気を揉みながら見守ることだけだ。 望美は一つ上の枝に掴まりつつ、器用に枝の上を進んでいく。しかしその枝も先に行くに従って細くなっているのだ。いつ折れるのではないか、足を滑らせるのではないかと、見ているこちらの方が寿命が縮む思いである。 「望美さん、足元に気をつけて」 迂闊に大声で呼び掛けると刺激してしまいそうで、弁慶はなるべく静かに声を掛けた。 そうこうしている内に、彼女は何とか着物の引っ掛かっている枝の近くまで辿り着くことが出来た。 伸ばした指先に着物が触れたが、ほんの少し距離が足りなくて、掴むことまではできない。 「あと、もうちょっと……なんだけど……」 呟きながら、望美はじりじりと体重を移動させている。しかし足場にしている枝は望美の体重を支えきれずにしなっていて、危なっかしいことこの上ない。 弁慶は居ても立ってもいられない気分で彼女の真下に移動した。 ここにいれば、万が一望美が足を滑らせて落下したとしても受け止めることが出来るし、もしも受け止めきれなかったとしても、自分が緩衝材になることで彼女が怪我をすることは防げるはずだ。 「望美さん、無理なようでしたら飛びおりて下さい」 下に自分がいることを知らせるべく声を掛けた弁慶に、 「べ、弁慶さん、何でそんなとこにいるんですか!」 望美はなぜだか声を裏返らせて抗議してきた。 いや、抗議だけでは飽き足らず、顔を赤らめながら怒ったように口元を戦慄かせている。 「望美さん?」 愛しい少女が態度を急変させたことを訝しく思いながら、彼は伺うように小首を傾げて彼女の真下へと移動した。 「だーかーらー! どうして下に来るんですか!」 顔を真っ赤にして威嚇するように声を荒げている姿は、常ならば可愛らしくてからかい甲斐のある態度に映るところだが、さすがに今は状況を楽しむ余裕はない。 いっそのことこのまま洗濯物を諦めて降りてきてほしいと思いつつ、弁慶は樹の上の少女を覗き込んだ。 「それは、危ないからに決まっているでしょう? 真下にいれば、万が一君が足を滑らせたとしても受け止めることが出来ますからね」 「だ、だからそんな風に覗き込まないで下さいって……あ、きゃああっ」 何を思ったのか、彼に文句を言いながら突然太い枝から片手を離した望美は、それによってぎりぎりでたもっていた均衡を崩してしまった。 当然落下してくるものだと腕を広げて受け止める格好を取った弁慶だったが、彼女は器用に一つ下の枝にぶら下がって滑落だけは免れていた。 さすがに木登りが得手なのだと言うだけのことはあるが、寿命が縮むような思いをしたのには違いない。 「望美さん、受け止めますから手を離して」 「だから、真下に来ないで下さいってば!」 「真下に行かなくては受け止められないでしょう」 「だったら受け止めてくれなくて良いです!」 一体彼女は何をそんなに意固地になっているというのか、弁慶にはさっぱり解らない。 とはいえ、ここで押し問答を続けていたところで埒は明かないし、途中で望美が落ちて怪我でもしたら大変だ。 (荒療治だけれど、この際仕方ないか) 弁慶はため息をひとつ吐くと、 「望美さん、そこに毛虫が!」 緊迫感を伴った声でそう叫んだ。 「いやああああああっっっ!」 彼の狙った通り、望美は条件反射のように身を強張らせて枝から手を離した。真下で待機していた弁慶は、重力に任せて落下してきた華奢な体躯を難なく抱き止めると、漸く安堵して胸を撫で下ろした。 「やだっ、毛虫、どこどこ!?」 対する望美はすっかり恐慌状態に陥ってしまっていて、びくびくしながら涙目で周囲を見回している。 毛虫は弁慶が知る限り、彼女が尤も苦手とする虫だ。ああいえば驚いてすぐに手を離すだろうと思ったが、ここまで怯えられてしまうと何だか可哀相になってくる。 「大丈夫、毛虫はどこかに行ってしまいましたよ」 嘘を吐いたことなど微塵も感じさせない穏やかな口調でそう言い、宥めるように望美の背中を優しく撫でる。途端の彼女の身体から緊張による強張りが消えていった。 望美は騒いでしまったことが恥ずかしいのか、バツの悪そうな表情をして弁慶の胸を押し返し、赤い顔をして俯いた。 目尻にはまだ微かに涙が浮いていて、何となく嗜虐心がそそられる。 こちらがどう思うか解っていてやっているのならこれほど魅力的な誘惑はないが、タチの悪いことに彼女の態度は間違いなく無意識なのだからたまらない。 弁慶は意地悪く目を細めると、露わになったままの太股を指先でそっと撫で上げた。 「望美さん、木登りがお上手なのは判りましたが、こんな扇情的な格好は、出来れば家の中だけにしてくれませんか」 「……っ!」 耳元に甘く囁くと、彼女は俄に頬を染め上げて、慌てた様子で弁慶から距離をとり、捲り上げた裾を下ろしてしまった。 あれだけ気を揉まされたのだから、このくらいの悪戯は許されるだろう。 「それだけ動き回れるなら怪我の心配はしなくて良さそうですね」 にっこり微笑って言を継いだ弁慶に、望美はハッと我に返って再び顔を赤らめた。 「望美さん? どうしました?」 「どうしました、じゃありません! さっきみたいな時に真下に来るの、今度から絶対にやめて下さい!」 予想していなかった抗議の言葉に、さすがの弁慶も目を丸くした。 「は?」 「だ、だって……その……下から見えちゃったら恥ずかしいじゃないですか」 望美はもじもじと袖口を揉み絞るようにしながらそんなことを言う。 弁慶は思わず、目眩を抑えるかのように片手で顔を覆った。 二人で暮らすようになって一年半、肌を重ねた回数など数え切れないほどだというのに、この初々しさはどうだろう。目を逸らしつつそんな可愛らしいことを言われては、冷静沈着な軍師の看板などすぐさま引っ込めてしまいたくなろうというものだ。 「……弁慶さん?」 上目遣いでちろりと見つめてくるその眼差しさえも可愛すぎて、彼はあっさり白旗を掲げて自制心を手放した。 「本当に、君はいけない人ですね」 「は? って、ちょっと弁慶さんっ?」 抵抗する暇もあらばこそ。 弁慶は不意打ちのように彼女を軽々と抱き上げると、驚いて抵抗の姿勢を見せた愛妻の耳元に甘く甘く囁きかけた。 「僕は君の誘惑には逆らえないんです。恨むのなら、たとえ無意識とは言え、僕を誘いたらしめた自分の軽率さを恨んで下さいね」 枝に引っ掛かった件の着物が弁慶の手によって回収されたのは、すっかり陽も暮れた後のことだったという。 そうして、望美はこれ以後、決して木登りをすることはなくなったのだとか。 |
※無料配布本『無意識の誘惑』より(初出 2006/09/24 アンジェ金時にて発行) 原稿時期にうっかり別ゲームにハマって原稿のペースを掴み損ねた挙げ句、 その時予定していた新刊を落とす羽目に陥りまして。 さすがに新刊ナシというのは自分的にもキツかったので、書きかけフォルダの中から急遽書き上げた話がこれです。 もともとサイト用のつもりで書き始めて放置してたものでした。 望美ちゃん、恥じらうくらいなら最初から裾からげて木登りなんかしちゃ駄目だよ!(笑) まあ、ずっとミニスカート穿いてたわけだし、太股くらいまでならそんなに恥ずかしくないんでしょうけどね。 (でも下から覗かれるとなったら話は別だわな) |