おねだり

Presented by なばり みずき


 気乗りがしない相手と会わなければならないのだと、弁慶は苦笑して肩を竦めた。
 さきほど使いに来た男が持ってきた手紙は、さしずめその召喚状といったところなのだろう。
「本当は行きたくないんですが、そうも言っていられません」
 彼がこんな風に愚痴をこぼすのは珍しかったが、だからといってここでグズグズしていたところで済むわけでもない。
「気が進まないからって延ばし延ばしにしていても仕方ないでしょう。さっさと用事を済ませてすっきりさせちゃいましょう」
 明るい声で励ます望美に、彼はわざとらしくため息をついた。
 こんな子供じみた真似をするほど嫌なのかと思うと何だか微笑ましい気分になってくる。
「ほら、弁慶さん、支度手伝いますから」
 望美はくすくす笑いながら弁慶の肩を軽く叩いた。
 と、その細い手首を彼の手が掴む。
「弁慶さん?」
「では、気の進まない相手と会わなければならない僕を鼓舞してくれませんか?」
「まあ、私に出来ることなら……」
 縋るような瞳で見つめられて反射的に答えた望美だったが、
「君にしか出来ないことですよ」
 弁慶が悪戯っぽく微笑んで言った瞬間、早くも自分の宣言を後悔した。
 これは彼が望美のことをからかう時などに見せる顔だ。
 前言撤回を許さないにこやかな笑顔に彼女の背中を冷や汗が伝う。
 まさかいくらなんでも無茶な難題を吹っ掛けてくるようなことはないと思うが、なにぶんこの男は見た目に反して少々人が悪いきらいがある。望美の困った顔を「可愛い」と言っては、何かにつけてからかってくるのだから決して油断は出来ない。
「何をすればいいんですか?」
 用心深く訊いた彼女に、弁慶は笑みを深くした。
「では『いってらっしゃいのキス』というものをお願いします」
「は?」
 思わず目を丸くして聞き返してしまった。
 なんだろう、その、ひどく元の世界を彷彿とさせるリクエストは。
「以前、将臣くんが教えてくれたんですよ。君たちの世界では、新妻が夫を送り出す時にそういうことをするものだと」
 邪気のない笑顔で言う弁慶に、望美は軽い眩暈を感じた。
 これが白龍ならば百パーセント騙されているのだと思っていいだろう。
 あるいは九郎や敦盛ならば信じてしまっていても不思議はないと思える。
 しかし相手は弁慶だ。
 将臣がどんな話し方をしたかは知らないが、少なくとも、それが全ての新婚夫婦に当てはまるものだと言ったとは思えない。そしてこの美貌の元軍師が、将臣の冗談めかした話を素直に鵜呑みにするとも思えなかった。
「違うんですか?」
 楽しげに言う弁慶を見ていて確信した。
 これは、絶対に、わざとだ。
 こうなってくると「気乗りしない相手に会わなければならない」というのも疑わしい。
 しかし口の巧さに於いて望美が弁慶に敵うはずもない。どんなに言い訳を駆使しても最終的には彼にいいように丸め込まれてしまうに違いないのだ。
 別に『いってらっしゃいのキス』が嫌だというわけではないけれど、こんな風に騙し討ちみたいな形でさせられるのは不本意だ。
「将臣くんが言ったのはごく一部の人達のことで、みんながみんなそうだとは限りません!」
 唇を尖らせてそっぽを向き、少し強めに主張する。
 こんな言葉で納得させられるとは思わない。望美自身、これが子供じみた抵抗だというのは解っていた。
 しかし、望美の予想に反して、弁慶はあっさり引き下がった。
「それならば仕方ありませんね」
「え?」
「心配しなくても、君がそんなに嫌がるのであれば無理強いしたりはしませんよ」
 彼は淋しげに微笑んでそう言うと、望美に背を向け、出掛ける支度を始めた。
 演技なのか、そうでないのか、黙々と支度をする横顔からは窺い知ることが出来ない。
「ほんとにもう……」
 望美は深々とため息をついて苦笑した。
 恨むなら、こんなタチの悪い相手に惚れてしまった自分を恨むべきなんだろう。
 そして、望美はそんな彼を選んだことを後悔なんてしていないのだ。
「嫌なわけじゃないです。ただ、ちょっと照れくさいだけ」
「望美……」
 顔を上げた彼の口唇に、望美は素早く背伸びして自分のそれを押し当てた。
 不意打ちのようなキスだったから、さすがの弁慶も少し驚いている。
 してやったりといった気分で身を離した望美を、彼が後ろから抱き締めた。
「本当に、君には敵いませんね」
 本当は、それはこちらの台詞なのだけれど。
 思いがけない表情を見ることが出来たのが嬉しくて、満更でもない気分で微笑む。
 策士な旦那様に、それから毎日『いってらっしゃいのキス』をねだられるなんて、この時の望美は知る由もなかったが――それは、また、別のお話。








拍手の御礼用掌編としてアップしていました。
お約束といえばお約束な感じの新婚さんネタです。
とりあえず、弁慶さんの反撃箇所は嬉々として書いてました。
望美ちゃんはきっと、帰ってから美味しく「食べてしま」われたのだろうと思います(笑)

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