彼女の問いの意図するものは

Presented by Suzume


 風早が大事に慈しんで育てた少女は、その甲斐あってとてもまっすぐに育った。
 一緒に暮らしている那岐などは、年頃の娘としては少々ずれていると事ある毎に指摘するが、言い方を変えればそれだけ擦れていないということに違いないし、何よりその無垢さもまた千尋の魅力といっていい。
 しかしまっすぐすぎるというのは確かで、それが仇になって時折とんでもないことを口走ることがあった。
 今投げかけられた質問がまさにそれだ。
「ねぇ風早、キスってどんなもの?」
 脈絡も何もなく予想もしていなかった問いが愛しい姫君の口から漏れ出たことに驚いて、彼は思わず飲んでいたお茶を噴き出しかけた。幸いぎりぎりでそれは免れたものの、代わりに気管に入ってしまって軽く噎せてしまった。
 見上げてくる碧い目はまっすぐで、その眼差しに些かの曇りもない。
 千尋がどうしてそんな質問をしたのかは解らないが、この真剣な表情からそれが単なる好奇心ではなさそうなことが窺えた。きっと彼女なりに何か理由があってのことなのだろう。
「千尋はキスの何を知りたいんですか?」
 風早は身を屈めて愛しい少女と視線を同じくし、優しい口調で聞き返した。
 彼女の問いはあまりにも抽象的だ。
 たとえばキスという行為がどんなものかを知りたいのか、それともどういった切っ掛けでそういった行為をするに至るのかを知りたいのか。
 意図するところが解らなければそれに見合った答えを提供することは難しい。
「何って……」
 千尋は言い淀むように唇を尖らせて顔を俯けた。
 その表情は問いの趣旨を上手く説明できないもどかしさというものではなく、どちらかといえば拗ねているときのそれに近い。
 彼は自分の言動を顧みて、何が幼い姫君の気に障ったのだろうかと考えを巡らせたが、残念ながらこれといった答えは導き出されなかった。
「千尋?」
 どうしたんですか、と言外に含ませて名前を呼んだら、彼女はきゅっ、と唇を噛みしめて顔を上げた。
 見上げてくる眼差しはきつく、風早のことを責めているように見えなくもない。
「千尋、一体何を怒っているんです?」
 心当たりはないものの、こんな表情をさせてしまうからにはきっと何かあるのだろう。
 対処に困ったときは直接理由を尋ねるに限るというものだ。
 勘違いなら誤解を解けば済むことだし、こちらに非があったのなら謝罪は厭わない。
 彼が柔らかい口調で尋ねたら、
「別に怒ってるわけじゃないけど……」と、千尋はばつの悪そうな顔をして口籠もった。
「けど? でも千尋が気分を害しているのは事実でしょう? 俺が何か失言をしたっていうなら指摘して下さい」
 重ねて聞いた風早に、彼女は観念したように嘆息して肩を落とした。
「違うの、風早は悪くない。私が……期待してたような答えがもらえなくて、ちょっとがっかりしただけ」
「期待?」
 一体どんな答えを期待していたというのだろうか?
 訝しむ彼とは対照的に、千尋の方は妙にすっきりした顔をしていた。
「質問を変えるね。風早はキスってしたことある?」
「キスですか?」
 頭に浮かんだままの疑問は一時棚上げして、風早は至極真面目に次の問いに対する答えを考えた。
 これもまた種類によって答えが異なるわけだが、それをそのまま告げたら再び彼女の機嫌を損ねてしまいそうな気がした。
 だからといって自分の中の選択肢に「適当に誤魔化す」というものはない。千尋に対してはどこまでも誠実であるべきだと思っているし、必要に迫られていない嘘や誤魔化しはしたくなかった。
「あるといえばある、かな」
 結局風早が選んだのはそんな言葉だった。
 恋愛の絡む行為としてでは「ない」が、親愛の情を表す行為としてなら「ある」。
 そういう意味で答えたのだが、彼女は何かショックを受けたように大きな目をいっぱいに見開いて微かに唇を戦慄かせた。
「えぇーと……千尋? どうしたんですか?」
 思っても見なかった反応に狼狽えながら、彼は心ここにあらずといった様相の少女の目の前でひらひら手を振って見せた。
 と、夢から覚めたように千尋が慌ただしく目を瞬かせて、それから落ち着かなげに視線を落とした。
「それは……その……いつ頃の話?」
「は?」
「最近のこと? それともわざわざ言わなかっただけでもっと前から付き合ってる人がいるとか? 私、風早にそういう相手がいるなんて全然知らなくて……」
 呆然とした顔で告げられた言葉に風早は我が耳を疑った。
「え? 千尋、何を……」
 面食らって問い返そうとしたのを遮るように、彼女は顔を強張らせながら笑顔のできそこないのような表情を浮かべて、
「でもそうだよね、風早だっていい歳なんだし、私が知らないだけでそういう人がいても不思議はないよね。お隣のおばさんだって「風早くんは好青年だからもてるでしょう」って言ってたし」と続けた。
 ここまで聞けば、いくら同僚の教師やかつての友人から朴念仁と言われる自分でも千尋がどういう意図であんな質問をしてきたか解ろうというものだ。
 そして彼女が全くの勘違いをしているということも。
「千尋」
 注意を引くべく名前を呼ぶが、千尋の耳には届いていないらしく、尚も目を逸らしたまま推測の言葉を連ね続けている。
 いや、もしかしたら声は届いているのかもしれない。届いていて聞くことを拒否しているのかもしれない。彼女の表情からはそんな頑なさが窺えた。よく見れば大きな目はじんわり滲んで今にも涙の雫が零れそうだ。
「あっもし結婚とか考えてるなら私や那岐に気を遣ったりしないで遠慮なく……」
「千尋……千尋!」
 埒が明かないと判断した風早は震える声を遮るようにより一層強く名前を呼んで、愛しい少女の華奢な肩に手を置いてその碧い目をまっすぐに覗き込んだ。
「千尋、落ち着いて。俺の話を聞いて下さい」
 諭すように告げたにもかかわらず、千尋は雷に打たれたようにびくんっ、と身を竦ませた。眼差しは不安をなみなみと湛えていて、聞くのが恐いと雄弁に物語っていた。
 それも当然かもしれない。
 彼女にとってこの世界で身寄りと呼べるのは自分と那岐だけだ。大人と呼べるのは風早だけで、もし万が一彼が結婚して生活を別にするような事態になったりしたら、それは彼らが庇護者を失うということに他ならない。不安を抱くなというのは無理な相談だろう。
 風早は一刻も早く大事な姫君の憂虞を晴らすべく口を開いた。
「誤解させるような言い方をしてしまったことは謝ります。千尋の言っていた「キス」が恋愛的な行為だけを指しているとは思わなくて」
「……え?」
 苦笑を交えながら噛んで含めるように言った彼に、千尋は掠れた声で小さく声を漏らした。
 目にはまだ僅かながら疑わしげな色が残っているが、ともかく話を聞く気になってくれたのは間違いない。
 風早は柔らかく微笑んで、安心させるように彼女の頭を優しく撫でた。
「一言にキスと言ってもいろいろあるでしょう? 唇以外にも、額や頬にする口づけだってキスって言うじゃないですか。俺があると言ったのはそういう意味ですよ。相手はうんと小さい頃の千尋なんですが……その様子じゃ覚えてないようですね」
 そう告げたら、千尋は見る間に頬を薄紅色に染め上げた。
 記憶にない幼い頃のことを引き合いに出されて照れくさくなったのかもしれない。
 そんな彼女が可愛くて、風早はつい出来心で、
「こんな風にね」とこめかみにちゅっ、と音を立てて口づけた。
「なっ……か、風早!?」
 ちょっとした悪戯のつもりだったのだが、千尋は目を白黒させながら声を裏返らせて、まるで腰でも砕けたかのようにへなへなと座り込みそうになってしまった。
「おっと。すみません、そんなに驚かせるつもりじゃなかったんですが」
 少しばかり悪ふざけが過ぎたかと思いつつ慌てて抱き支えてやる。
「……風早って、実は天然たらしなんじゃない?」
 何とか体勢を立て直した彼女は、恨みがましい眼差しでこちらを睨み付けながらぽつりと呟いた。
「どこでそんな言葉覚えてくるんですか」
「こないだクラスの子が言ってたの。そのときはよくわからなかったけど、風早みたいな人のことだって言ってたんだ。なんか納得した」
 この場合、納得されてしまうのは良いことなのか悪いことなのか……。
 彼は内心で自問しながらとりあえず苦笑いして肩を竦めてみせた。
「まぁ天然たらしかどうかはともかく、俺の頭は千尋のことでいっぱいですからね。たらす相手もいないですし、問題はないでしょう」
 にこやかにそう言って、風早はこの話はこれでおしまいと言うように、
「お茶でも入れましょうか」とあからさまに話題を変えた。
 これ以上こんな話を続けていたら踏み込んではいけない領域に達してしまいそうだと思ったからだ。
 千尋が何かを諦めるように微かな溜め息を漏らしたのを背中で聞きながら、彼はふとあることに思い至って振り返った。
「そうだ、千尋」
「なぁに?」
 風早の「お茶でも」という発言を受けて急須と湯飲み茶碗を食器棚から取り出していた彼女は、こちらの呼びかけに何の気なしに顔を上げた。
「今みたいな話題は、他の男の前で無闇にしたりしないように気をつけて下さい」
「え?」
「特に最初の話題の持っていき方だと、相手が良からぬ輩だった場合、実践で教えるとか不埒なことを言い出しかねませんからね。そういうところで擦れていないのは千尋の魅力でもありますが、充分注意して下さい」
 無論そのような不逞の輩が現れようものなら闇討ちでも何でもして粛正する心づもりではあるが、そんな物騒な感情は微塵も感じさせないよう、彼はあくまで保護者の顔をして諭すように告げた。
 千尋はなぜかたっぷり十秒ほど放心したような様子で沈黙していたが、その後、何とも言えない表情で唇を震わせた。いや、唇ばかりではない。震えは瞬く間に全身へ伝播した。
「千尋?」
 急に震え出すだなんて風邪でも引いたのだろうかという風早の心配をよそに、彼女は柳眉を逆立てて湯飲みと急須を叩き付けるようにテーブルの上に置き、
「風早の馬鹿! 激ニブ! 朴念仁!!」と怒鳴って出て行ってしまった。
「千尋!?」
 一体何が逆鱗に触れてしまったのかさっぱり解らないまま、彼は肩を怒らせ足音も荒々しく自室へ引き上げていく千尋の背中に声をかけた。しかし彼女の怒りはよほど強いようで、立ち止まるどころか振り返ることもなくさっさと階段を上がって行ってしまった。
 すぐに追いかけて謝るべきか、暫くそっとしておいて落ち着くのを待つべきか逡巡していたら、居間にいたはずの那岐がひょっこり顔を出した。
 彼は呆れたような溜め息をつきながら風早の前を横切って、いつのまにかシュンシュンと音を立てていたやかんの火を止めた。
「余計なことだってわかってるけど、あんた、思ってたより鈍いんだな。それとも解っててやってるわけ?」
「どういうことかな?」
 意味を図りかねて尋ねたら、那岐は眉を寄せてうんざりしたように嘆息した。
「まったく、千尋も物好きだよ。あんたみたいなの相手じゃ苦労するの目に見えてるだろうに」
 生憎よく聞き取れなかったが、あまり良いことを言われていないことだけは窺えた。
 だがこの少年の口の悪さは今に始まったことではないし、いちいち目くじらを立てるほど風早も気短ではない。
 軽く肩を竦めてみせた彼に、那岐は小さく鼻を鳴らして、千尋の部屋の方へと目を向けた。
「まぁ、気が済むまで放っておいてやりなよ。どうせ今行ったって逆撫でするだけだろうし」
「そうか。那岐が言うならそうなんだろうな」
 面倒臭いだの何だのと言いながら、この少年がこの少年なりに彼女を案じているのは知っている。
 洞察力に長け、千尋と常に行動を共にしている彼がそう言うのであれば、きっとそれが正解なんだろう。
「それじゃぁ、お茶は二人分で良いかな。千尋の分は降りてきてから用意するってことで」
 急須に茶葉を入れながら言った風早を一瞥して、那岐は気まぐれな猫のように居間へと引っ込んだ。
「ほんと、千尋も苦労する」という、よく解らない呟きを漏らして。
 解らないといえば今日の彼女の言動も解らない。
 一体千尋はどんな意図があってあんな質問をしてきたのだろう。
 そして、最初の問いに対して彼女はどんな答えを期待していたのだろう。
 思考を巡らせてみても正解らしい考えには行き当たらなかった。
 あの様子では那岐は答えを知っていそうだが、そこで彼に聞いてしまうのは何だか違う気がした。
「まぁ時間はたっぷりあるし、ゆっくり考えるか」
 誰に言うでもなく呟いて、風早は湯飲みに茶を注いだ。

 春まではあと数ヶ月の猶予がある。
 それまで、せいぜいこの穏やかで優しい時間を謳歌しようと胸の内で呟きながら。








ゲーム本編より前の橿原市での葦原家のお話です。
「風早って天然たらしだよね!」と思って書いたんですが
天然たらしというより天然ボケな話になってしまいました(しょぼん)
那岐の発言ではないですが、こんな人相手じゃちーたんも苦労しますよね!(苦笑)

文章自体書くのが久々なので不自然なところとかあってもお目こぼし下さいませー!(平伏)

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