サンプル2(愛あればこそ)

Presented by なばり みずき

 月が中天に昇る頃、そろそろ床に就こうとしていた千尋は扉を叩く音に気がついた。
 こんな夜更けに訪れてくるような相手の心当たりはそう多くない。
「はい?」
 夜着の上に薄布を羽織って応えを返すと、聞き慣れた声が「俺だ」と告げる。
「アシュヴィン?」
 訪問者は数少ない心当たりの筆頭、アシュヴィンだった。
 慌てて扉を開けると、彼はまるで人目を憚るかのようにするりと室内に身を滑り込ませてきた。その動きに隙はなく、どことなく野生の獣を思わせる。
「どうかしたの、こんな時間に?」
「夫が妻の部屋を訪うのに理由が必要か?」
「そういうわけじゃないけど……」
 そういうわけじゃないけれど、こんな風に先触れもなく訪れるのは珍しい。
 言葉を探していると、アシュヴィンが先を促すような視線を向けてきた。その眼差しは熱を帯びているようで、自然と頬が熱くなってくる。
「あの……アシュヴィン、そんな風に見つめられると恥ずかしいんだけど」
 何とも言えない照れ臭さを誤魔化すように顔を俯ける。きっと今の自分は熟れたトマトのように真っ赤な顔をしているに違いない。
 落ち着かない気分を味わわされたのは時間にして数秒といったところだろうか。
 アシュヴィンは耐えかねたというように小さく吹き出すと、頭を大きな手の平で乱暴に撫でた。まるでシャニにするみたいに。
「すまんすまん、悪ふざけが過ぎたようだ」
 そう言って笑いながら謝罪した彼は、不意にその顔から笑みを消してひどく真剣な表情を浮かべた。
 それは千尋がよく知るアシュヴィンの表情ではなく、公の場で見せる皇の顔だ。寛容さと同時に情け容赦のない面を併せ持つ、常世を統べる君主の表情(かお)。
「アシュヴィン?」
 ただならぬ雰囲気を感じ取り、千尋も居住まいを正して相対した。
 二人の間にそれまで漂っていた親密な空気はたちどころに霧散し、代わりにピリピリとした緊張感が漂う。
「明日から暫く根宮を空ける。ちょっと厄介な問題が起こって、俺が自ら出向かなければならなくなった」
 告げられた言葉は半ば予想していたものだった。大して驚くことなく頷いてみせる。
 大体、そういう理由でもなければ、こんな夜更けにアシュヴィンが突然この部屋を訪れるとは思えない。
「そんなことだろうと思った。長く掛かりそうなの?」
「判らん。だが事態は急を要する上に深刻だ。兵達も連れて行くことになるだろう。代わりになるのを呼び寄せておくが、おまえもよくよく気をつけてくれ」
 軽く抱き寄せられて耳元で低く囁かれる。声音には得も言われぬ慈しみが滲んでいて、千尋の胸を甘く震わせた。
「うん、私は大丈夫。アシュヴィンの方こそ気をつけて」
「ああ、そうだな……おまえには龍の神の加護がある。きっと何もかもうまくやるだろう」
「え?」
「いや、何でもない。明日は朝早くにここを発たなければならない。支度もあるし、そろそろ帰るとしよう。このままここにいたら、離れ難くなってしまいそうだ」
 冗談めかした口調とは裏腹に、アシュヴィンはどこか思いつめた瞳をしている。
「アシュヴィン?」
 訝るこちらのことなど知らぬげに、彼は素早く身を屈めると、こめかみへ掠めるような口づけを落とし、まるで未練を断ち切るかのように踵を返して部屋を出ていった。
 千尋の胸に微かな不安だけを残して――。



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