サンプル(原田×千鶴本「あまく、とける」より)

Presented by なばり みずき

 繕い物をしていた千鶴の耳に、コト、と微かな物音が聞こえた。
 外出していた左之助が帰ってきたのだろうかと思ったが、一向に戸が開く様子はない。
 とすると、もしかして来客か何かだろうか。
 千鶴は手を止めると、糸の始末をしないまま針を針山へ刺して立ち上がった。
 来客の心当たりはあまり多くない。
 近所のおかみさんなら遠慮なく裏から声を掛けてくるだろうし、もともと父も千鶴も人づきあいの多い方ではなかった。何年も江戸を空けていて、今更知人が訪ねてくるなどということもないだろう。
 左之助の知り合いというセンも考えられなくはないが、もしそういう可能性があるなら出掛ける前に一言くらいありそうなものだ。実際、左之助はそのようなことは何ひとつ言っていなかった。
 他に考えられるのは、井吹という男くらいだろうか。
 夏に偶然街中で出会ったこの男は、左之助の古い知り合いで、元は新選組にいたのだという。舞妓をしていた静(しず)と駆け落ちして夫婦になり、大坂で暮らしていたらしい。戦禍を逃れて江戸へ来たところへ偶然再会を果たしたということだ。それから先、江戸に知り合いのいない静の話し相手になってくれという名目で、夫婦でたまに遊びに来る。同年代の女友達が少ない千鶴にとっても、静との他愛ないやりとりは良い気晴らしになっていた。
(でも、井吹さんや静さんはついこの間いらしたばかりだし……)
 井吹夫妻の住居(すまい)はさほど遠い場所ではないが、だからといってそう足繁く訪ねてこられるような距離でもない。彼らとてそう暇な身ではないのだ。
 そんなことをつらつら考えながら外の様子を窺うと、
「ごめんください」
 機を計ったかのように声が掛けられた。どこかで聞いたような、涼やかな女の声である。
 訝りながら格子戸を開けた千鶴の前に現れたのは――



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