BIRTHDAY

Presented by Suzume


 初めて迎えた大学の試験は、高校のときとは何もかも勝手が違っていた。
 受けなければならない教科の数も多いし、試験のスタイルもまちまちだ。おまけに高校時代のようにヤマをかけるなんてこともできない。もちろん中には要領良くサークルの先輩などから対策を教わっている者もいたが、あいにくヒトミはそういうタイプではない。
 レポートの提出などに追われている内に、試験日はすぐそこまで迫っていた。
 そんなある夜、ふと卓上カレンダーに目をやったヒトミは、今が深夜といっていい時間だというのも忘れて、
「あああああぁぁぁぁっっっ!!!!!」と頭を抱えて悲鳴じみた声を上げた。
 鷹士が留守だったのは不幸中の幸いだ。彼は大学時代の友人の結婚式に出席するため、泊まりがけで出かけていたのだが、もし家にいたら今の声を聞きつけて大変な騒ぎに発展していたことだろう。
 しかし今のヒトミにはそんなことを気にするゆとりもない。慌てて壁掛け時計に目をやって時間を確認する。
(十一時四十七分……まだ間に合う!)
 そこからの彼女の行動は実に素早かった。寝坊して遅刻しそうな時だってこんなにスピーディーにはいかないだろうという手早さで簡単に身支度を整えて玄関に向かった。
 靴を履きながら下駄箱の上の小物入れに手を突っ込んで鍵を引っ掴み、体当たりするみたいな勢いでドアを開けて外に出た。
 ヒトミはエレベーターホールを横切って、迷わず非常階段を駆け下りることを選んだ。このマンションでは夜十一時を過ぎたら、防犯のため、エレベーターは各階に停止するようになっているのだ。通り過ぎ様にちらっと見たら、エレベーターは一階にいた。無人のエレベーターはまっすぐ上がってきてくれるが、最上階のここから一階に降りるまでには各駅停車になってしまう。今でさえギリギリなのに、それでは間に合わないかもしれない。
 幸いダイエットで鍛えた脚力は今も健在だった。今でも時々ジョギングなどをしているためだ。こんなことに役立つとは思わなかったけれど。
 とにかく息を切らすくらい大急ぎで階段を一階まで下りきった彼女は、そのままの勢いで目的の部屋へと向かった。
 こんな時間に迷惑だろうかなんて迷うこともなく、インターフォンを二度三度と押した。しかし待てども返答はおろか、人が出てくる気配さえもない。
 確かに一般的に言えば遅い時間かもしれないが、年頃の男子がこんな時間に寝ているとも思えない。このくらいの時間に電話で話したことなど数え上げたらきりがないほどなのだ。
 それとも今日に限って早寝でもしてしまったんだろうか。
 有り得ないとは言わないが、それは不自然な気がした。
 それともあるいは――ヒトミだとわかっていて出てくれないんだろうか。
 こんな時間になるまで恋人の誕生日を忘れているような薄情な女になど会いたくない、と。
 ヒトミは情けない気分を抱きながら、冷たい鉄の扉に額を押し当てた。
「剣之助くん……出てきてよ……」
 祈るように声をかけてみたがやっぱり中からの応えはない。
 途方に暮れながら、もう一度だけとインターフォンを押してみた。しかし結果は変わらなかった。
 剣之助が気を悪くしたのだとしても無理はない。
 そうでなくても大学が忙しいのにかまけて、最近あまり顔を合わせていなかった。何日か前に偶然会ったときもレポートのための徹夜明けで生返事しか返せなかったし、ここ半月ばかりはメールや電話の回数もぐんと減っていた。
 愛想を尽かされてしまったのかもしれないと思ったら、一気に涙が込み上げてきた。
「……っく」
 マンションの廊下は音が反響するから、泣き声なんて上げたら二つ向こうの部屋から何事かと若月が出てきてしまうかもしれない。そうなったら、最悪の場合、鷹士に連絡がいってしまうことだって考えられる。
 泣いちゃ駄目だと思うのに、涙は一向に収まってくれなくて、彼女はせめて嗚咽だけは漏らさないようにと口元に手を押し当てた。
「剣之助くん……ごめん、なさい……」
 呟くように漏らした声は微かに廊下に反響した。
 と、エントランスの自動ドアが開く音がして、誰かの足音が近づいてきた。
 思えば今日は週末の夜だ。酒好きな若月が飲みに出かけていたのだとしても何の不思議もない。そう考えたら、今までのヒトミの行動に気づいて彼が出てこなかったというのも頷けた。
 だとしたら、こんな時間にこんなところにいるのを見つかったら何を言われるかわかったものではない。
 軽くパニックに陥りながら、彼女はどこか隠れられる場所はないかと辺りを見回した。しかし、マンションの廊下には女一人が隠れられるようなスペースなどあるはずもない。
 そうこうしている内に足音はどんどん近づいてくる。
 降りてきたときと同じ非常階段に向かうにしても、それはこの廊下とエントランスとの間にあるから途中でばったり出くわす可能性の方が高い。
 絶体絶命のピンチに、ヒトミは身を竦ませて目を閉じた。
「あれ、ヒトミ?」
「え……?」
 聞こえてきたのは慣れ親しんだ声で、彼女が恐る恐る目を開けたら、そこには恋人の姿があった。
 Tシャツにハーフパンツというラフな格好で、手にはコンビニの袋が下げられていた。白いビニール袋からは雑誌と飲み物のペットボトルが顔を覗かせていた。
 気が抜けてへなへなとその場に座り込みそうになったのを、慌てたように剣之助の腕が支えてくれた。
「こんな時間に来るなんて……何かあったのか?」
 訝しげな声は優しくて、ヒトミは慌てて首を振った。
「でも、泣いた顔してる。とにかくここで立ち話もなんだし、入って」
 ハーフパンツのポケットから鍵を取り出して、剣之助は優しくヒトミの背を抱きながら部屋の中へと招き入れてくれた。
 ドアを閉めた彼は、片腕でヒトミを抱き締めながら、もう片方の手でまだ涙の残る眦を指先で拭ってくれた。
「何かあったのか? 鷹士さんは?」
「何もないの。ちょっとした勘違いで……」
 無人の部屋のインターフォンを何度押したところで答えなどあるはずがない。
 出かけているだなんて思いもしなかったのだから仕方ないとはいえ、彼女は早合点した自分が無性に恥ずかしく情けなかった。
 覗き込んでくる剣之助の顔は真剣そのもので、彼がヒトミの身を案じてくれているのが伝わってきた。深夜に突然きたのだから、彼が不審に思うのは当たり前だ。
「こんな時間に押しかけてきてごめんね。お誕生日おめでとうって……それだけ言いたかったんだけど、留守だと思わなくて……その……」
 ばつが悪い気分で説明したら、剣之助は呆気に取られたように目を瞬かせた。
「そんなことのために、こんな時間にわざわざ?」
「だって……」
 こんな、日付が変わる直前の時間になるまで忘れてました、とはさすがに言いにくくて視線を泳がせたヒトミだったが、ちらっと見上げた彼の顔が嬉しそうに綻んでいるのを見てほっとした。
 そして、遅ればせながら、自分がプレゼントも何も用意していなかったことに気づいて青ざめた。
「? ヒトミ?」
 瞬時に顔色を失った彼女に気づいて剣之助が訝しげに覗き込んできた。
 ヒトミは穴があったら入りたい心境で、
「ごめんね、実はプレゼントとか用意してなくて……」と蚊の鳴くような声で謝罪した。
 しかし剣之助は気を悪くするどころか、
「ここんとこ忙しそうだったのに、日付が変わって一番に会いに来てくれたんだ。それだけで充分嬉しい」と言って、言葉通り嬉しそうな顔をして彼女の額に口づけた。
 ここで、ヒトミは何かおかしいと気がついた。
 もう日付は変わってしまっているのだから、剣之助の誕生日は昨日の筈だ。しかし彼の口振りでは今日が誕生日のように聞こえた。
 そうして、不意に思い出した――自室の卓上カレンダーが月曜始まりのものだったことを。
 今年の六月三十日は土曜日で、月曜始まりのカレンダーでは右から二番目に表示される。一般的な日曜始まりのカレンダーなら金曜が表示されている場所だ。そして、曜日の感覚だけはしっかり「金曜だ」と思っていたヒトミはすっかり勘違いしてしまっていたのだった。
 思えば、これのおかげで今までにも何度か曜日を間違えて失敗していたのに、どうして気づかなかったのだろう。いくら試験勉強に追われていたからとはいえ、あまりにもまぬけなミスと言えた。
「ヒトミ?」
 剣之助は複雑な表情をして黙り込んだ彼女の頬に手を添えて上向かせた。薄暗い玄関先で、彼の目が心配そうに揺れている。
 何もわざわざ自分のドジをばらしてがっかりさせる必要はない。ここは彼の勘違いに乗らせて貰った方が絶対に良い。
 ヒトミは瞬時にそう決めて、
「ううん、なんでもないの」と微笑んだ。
 そして、背伸びをして彼の唇にお祝いのキスをプレゼントした。
「ちゃんとしたお祝いは、昼間どこかに一緒に買いに行こう」
「あれ、試験勉強で忙しいって言ってただろ」
「うん、でも剣之助くんの誕生日の方が大事だもん。あっ、せっかくだから今夜はこのままお泊まりしちゃおうかな」
 悪戯っぽく笑って言ったら、剣之助はびっくりしたように目を見開いた。あまり表情を変えない年下の恋人がそんな風に驚いた顔を見せてくれたのが嬉しくて、ヒトミはにっこりと顔を綻ばせた。
「今日はお兄ちゃんいないから、平気だよ。だから……ね?」
「そんな可愛い顔されたら、違うプレゼントが欲しくなるだろ」
 情欲を帯びた声でそんなことを言われたら、こっちだってその気になってしまう。
「……剣之助くんが欲しいなら、それでも良いよ」
「じゃぁ、遠慮なく貰っとく」
 それから二人はどちらからともなく口づけを交わした。

 降って湧いたような誕生日プレゼントを、剣之助が心ゆくまで堪能したのは言うまでもない。
 そうして、東の空が白むまで愛し合った二人は結局その日は夕方まで寝てしまい、プレゼントを買いに行くのはヒトミの試験が終わってからということになったらしい。







※無料配布本『BIRTHDAY』より(初出 2007/07/01 乙女祭にて発行)

イベント前日の修羅場真っ只中に体調を崩して予定新刊を落とす羽目になりまして(汗)
原稿後に余力があったら手直しして橘くんの誕生日当日にアップできたらなーと思っていたこのSSを
急遽、書きかけのSSフォルダから発掘して、ろくに手直しもできないまま
オフライン用に改行位置の調整だけして無料配布本に仕立て上げたのでした。
新刊を楽しみにして下さっていた方へ、せめてもの罪滅ぼしになっていればと祈るばかりです。

今回サイトにアップするにあたっては、一箇所だけ誤字の修正をした以外は
そのままの形でアップさせていただいております。

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