一口の誘惑

Presented by Suzume


 昼休み、日直の仕事で職員室に行ったヒトミは、別の教師から一学年下――つまり2年生の教室へ届け物を頼まれた。
 いつもなら面倒臭いとげんなりするところだが、届け先が恋人のクラスとなれば話は別だ。
 学年が違うと、こんな用事でもなければ教室を訪れることもなかなかできない。
 そうしてヒトミは軽い足取りで2年生の教室を訪れた。
 ついこないだまで使っていた教室は、中に収まる人間と掲示物が変わっただけでもうすっかり他人の顔だ。
 手近な生徒を捕まえ、先生からの言付けを伝えて頼まれたプリントを渡したら用事はあっさり済んでしまった。
 何気ない風を装って教室内を見回していたら、
「先輩!」と聞き慣れた少年の声に呼ばれた。
 ヒトミがいるのとは反対側、後ろのドア付近の席で颯大がぶんぶんっと手を振っている。
 その手前で、剣之助が少しだけ目元を和ませて会釈していた。
 そういえば、今年も同じクラスになったって言ってたっけ、と思いながら反対側のドアへと回り込んで、彼女は手招かれるまま教室内に足を踏み入れた。
 ドア付近の後ろの席だから、上級生であるヒトミが入っていってもあまり目立たないのが有難い。
 予習をしていたのか、あるいは宿題を写していたのか、机の上にはノートが広げられていた。
 その横に小さなお菓子の箱が一つ。
「あれ? それ新作?」
 見覚えのないパッケージには、季節限定の文字が躍っている。
「うん! さすが先輩、目敏いね。すっごく美味しいんだよ。先輩にもあげるね」
 颯大はにこにこと人懐っこい笑顔を浮かべながら、箱の中からチョコレートでコーティングされたお菓子を一つ摘んで、
「はい先輩、あーん」とヒトミの口元に手を伸ばした。
 つられて「あーん」と口を開いたヒトミだったが、お菓子は彼女の届く前に剣之助の手によって取り上げられてしまった。
「えっ?」
 きょとんっ、とした二人を後目に、剣之助が立ち上がる。
「先輩、ちょっと」
 言うが早いか、彼はヒトミの腕を取って、有無を言わせず教室を出た。
 見上げた彼の横顔はなぜだか妙に険しくて、ピリピリとした空気が伝わってくる。
 何か怒らせるようなことをしてしまっただろうかと、ヒトミはつい今し方のやりとりを思い返した。
 しかし特にこれといって思い当たる節はない。
 いや、ひとつだけあることはある。
 目標体重に達したとはいえ、油断するとすぐに体重が増えてしまうものだから、彼女のダイエットは事実上継続中なのも同然だった。
 それなのに、誘惑にあっさり負けてお菓子を食べようとしたから呆れられてしまったのかもしれない。
 とはいえ、それがここまで怒らせるようなことだろうかという気もするし……。
 黙って腕を引かれるまま着いていくと、彼はひと気が少ない階段脇のスペースで足を止めた。
「橘くん?」
 わけの解らない気分のままちょこんっ、と小首を傾げて年下の恋人を見上げたら、彼は呆れとも苛立ちともつかない表情を浮かべて思いきり溜息をついた。
「先輩、無防備すぎッスよ」
「え?」
「それとも俺の反応見て楽しんでるんスか?」
 剣之助は逃げ道を塞ぐように壁に手をついてそう言った。
「えぇーと……?」
 ヒトミは彼の言葉の意味が解らなくて、困ったように視線を泳がせた。
 食い意地を発揮したせいで怒っているわけではないようだが、そうなると本当に心当たりがない。
 もう一度見上げると、彼は先ほどよりも更に大きな溜息をついて肩を落とした。
「橘くん?」
「しょうがねえなぁ」
 剣之助は何を思ったか、何の脈絡もなく先ほど颯大から取り上げたお菓子を出して、
「はい、あーん」と促した。
 ヒトミはまたしても反射的に「あーん」と口を開けた。
 剣之助は彼女の口に甘いチョコレートを放り込んだと思ったら、指先でヒトミの唇をすぅっと撫でた。
 そして彼はその指先をゆっくりと自らの口に運んで、これ見よがしに舐めて見せた。
 その仕草の一つ一つが妙に艶めかしくて、思わず顔が赤くなる。
 口の中に広がった甘さも何も解らないまま、急いでそれを飲み込んで、ヒトミは飛びかかるようにして剣之助の手を押さえた。
 自分の唇に触れた指を舐められるのは、視覚に訴える分、ある意味キスよりよほど刺激が強い。
「何スか?」
「ちょっ、お願い、恥ずかしいからやめて」
 心臓をばくばくいわせながら、ヒトミは何とか言葉を吐き出した。
「……これで少しは解ってもらえました? 無防備だって」
「えぇーと……」
 実を言うとまだよく解らない。
 だが、そう言ったら更に恥ずかしい真似をされてしまいそうで、ヒトミは赤い顔を俯かせてとりあえず頷いてみせた。
 しかし剣之助にはヒトミが理解していなかったのはお見通しだったらしい。
 彼は壁に背を預け、目を逸らして、
「深水がそこまで考えてるかは解らないけど、ああやって食べさせられたら指が口に触れるじゃないスか」と言った。
 間接キスという言葉が頭をよぎる。
 剣之助が言いたいのは、つまりそういうことなのだろうか。
 ヒトミの表情に理解の色を見て取ったのだろう、彼の表情が微かに和む。
「……解ってもらえたッスか?」
「うん、たぶん」
 他人から見たら他愛ないヤキモチなのかもしれない。
 けれど、例えば他の女の子が剣之助にああして何かを食べさせるなんて場面に遭遇したら、ヒトミだってきっと嫌な気分になる。
 想像したら自分の無神経さが本当に腹立たしくなった。
「無神経な真似してごめんね」
 しゅんと項垂れて謝った彼女に、剣之助はふっと苦笑して、
「解ってもらえたならいいッスよ」と言ってくれた。
 そして、落ち込んだヒトミを慰めるかのようにポンポンっと頭を撫でてくれた。
 これではどちらが年長者かわからないなと思って見上げたら、いつのまにか至近距離に剣之助の顔が迫っていた。
 あっと思う間もなく唇の端を舐められて、思わず腰が抜けそうになる。
「た、たた橘くん!?」
「菓子くず、ついてましたよ」
 彼は座り込みそうになったヒトミを悠々と支えながら、悪戯を見咎められた子供のような顔で言った。
 照れくさそうに頬を染めて、そんな嘘か本当かわからないような言い訳をするくらいなら、最初からそんなことしなければいいのに、と思わないではない。
 けれど、こういう子供のように堪え性のないところもまた彼の魅力のひとつなのだと思ったら、文句の言葉が言えなくなってしまう。
「もしかして、嫌だった?」
 その上、こんな風に萎れた態度で尋ねられたらもう怒ることもできなくて、ヒトミは仕方ないなと言うように肩を竦めて、
「できれば、次からは場所を選んでね」と告げるに留めた。
「それなら大丈夫。ここ、人も殆ど通らないし」
 剣之助はそう言うと、もう一度、今度はしっかり唇にキスをした。
 触れるだけの口づけだったが、いつひとが通るかと思うと気が気ではない。
「……もうっ、橘くん、全然反省してないでしょ!」
 唇が離れたと同時に文句を言ったら、
「先輩があんまり無防備に可愛い顔するのが悪いんスよ」としれっとした顔で言われてしまった。
 予想していなかった台詞に反論の言葉も出てこない。
 赤面しながら口をパクパクさせるヒトミとは裏腹に、彼は何事もなかったかのような顔をして、
「そろそろ昼休み終わるんで。先輩も早く教室に戻った方がいいッスよ」と言って廊下の方へと歩いていってしまった。
 途端に周囲の喧噪が戻ってきて、それと同時に壊れそうなくらい速い自分の鼓動に気がついた。
「午後の授業が頭に入らなかったら、橘くんのせいなんだからね」
 ヒトミは壁に背を預けて、彼が触れた唇をそぅっと指先でなぞった。
 彼の残した温もりと、口の中に残ったチョコレートの甘さを確かめるように。








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