幸せの象徴

Presented by Suzume


「誕生日には何が欲しいですか?」
 そう聞かれて、一ノ瀬は少し考えた後に、
「おまえの手料理が食べたい」と答えた。
 つきあうようになってから、何度かヒトミの手料理は食べているが、彼女の作る料理は実に美味しかった。
 高級なレストランや老舗の料亭などで食事をすることが多い一ノ瀬は、当然舌も肥えていたし、そのことを自負してもいたが、彼女の作る料理はそういう店で出すものとは次元の違う旨さが感じられた。
 素朴で優しい味付けだけではなく、ヒトミの人柄が味に表れているのだろう。
 そのことを言ったら、
「きっと愛情がたっぷりだからですよ」なんて笑って返された。
 普段の彼ならばそんな科学的根拠もないようなことを真に受けるようなことはないのだが、このときばかりはそういうこともあるのかもしれないと本気で思ったものだ。
 ここのところはヒトミが受験生ということもあってとんとご無沙汰だったのだが、ついこの間、晴れて志望校に推薦で合格を果たしたこともあり、それならばとリクエストしたのだ。
 ヒトミは一瞬だけ腑に落ちないような表情を覗かせたが、すぐに気を取り直したように拳を握り締めて、
「わかりました」と何やら決意の籠もった目をして頷いた。
 去年もらった香水も悪くはなかったが、どうせ貰うのであれば、自分で買うことができるものより、ヒトミでなければ贈ることができないようなものが欲しい。
 そのときはそこまで深く考えて言ったわけではなかったが、後になって冷静に自己分析してみたら、きっとそういう気持ちもあったのだろうと思えた。
 それから数日、彼は可愛い恋人が自分のためにどんなメニューをこしらえてくれるのかを密かに楽しみにしながら相変わらずの忙しい日々を過ごした。


 そして迎えた誕生日当日、一抱えもありそうな風呂敷包みを持って一ノ瀬の部屋にやってきた。
「おまえ、その大荷物は……」
 思わず呆気に取られて尋ねたら、彼女はしれっと微笑んで、
「だって、一ノ瀬さんのとこってろくに調理器具揃ってないじゃないですか」と告げた。
 確かにそれは否定しない。
 元々彼は器用な方だし、料理だって決してできないわけではない。
 家庭科の調理実習で習った程度の知識と経験しかないが、レシピを見れば大抵のものは作ることができるだろう。
 ただ、自分一人で食べるための物を時間をかけて用意する必然性が見出せないし、そんな時間があるならばもっと他のことに費やしたい。
 だから、一年ほど前までは、この部屋には本当に必要最低限の調理器具しかなかった。
 あるのはヤカンとフライパンとテフロン加工してある鍋の3つだけという有様で、炊飯器さえないのに驚いたヒトミに散々呆れられ、5合炊きのものを買ったのは大学に進学してすぐの頃だった。
 その炊飯器にしても、こうしてヒトミが食事を作ってくれるとき以外には全く出番がないのだが。
「だからといってそんな大荷物で来なくても、できあがったのをここに持ってくれば済むことだろう」
「だって、どうせならできたてのを食べてほしいじゃないですか。それに、できあがったのをいちいち運んでくる方が面倒ですよ」
「それはそうかもしれないが……」
 しかし、それにしてもどうして風呂敷包みなのだろう。
 持ち運ぶ手段ならバッグや紙袋など他にもいろいろあるだろうに。
 訝しくその包みを見ていたら、彼女は悪戯っぽく微笑んで彼の腕を取った。
「一ノ瀬さんは向こうでお仕事でもお勉強でも好きなことしてて下さい。できあがったら呼びますから、それまでキッチンには入らないで下さいね」
 珍しく有無を言わさぬ調子で言われて少しばかり調子が狂う。
 これではまるで鶴の恩返しだ。
 機織りをしている間は決して覗かないで下さい。
 お伽噺では老夫婦がその約束を破って部屋を覗き、鶴が自らの羽根で機を織っているのを目撃するわけだが、まさかヒトミが自らの肉を削ぎ落として料理をするわけではあるまい。今の彼女にそんな余分な肉などないのだし。
 思わず浮かんだ下らない考えを頭を振って追い出して、一ノ瀬は彼女の望むまま自室へ引き上げた。
 きっとヒトミのことだから、一ノ瀬を驚かせたいとか、そんな可愛らしい考えがあってのことなのだろう。
 せっかくのその心意気に水を差すこともない。
 それに、可愛い恋人が自分のために何を作ってくれるのか、それを想像しながら料理ができるのを待つというのもなかなか乙なものだ。
 彼はソファに腰を下ろして、とりあえず読みかけの本を読むことにした。


 できましたという声に呼ばれてキッチンに足を踏み入れた一ノ瀬は文字通り絶句した。
 料理の出来が悪かったのではない。
 その逆だ。
 焼き魚、野菜の天ぷら、大根とイカの煮物、ほうれん草のごま和え、胡瓜とワカメの酢の物、白菜の浅漬け、カブの味噌汁、そして土鍋には炊きたての白飯。
 テーブルの上に所狭しと並べられたその品数に驚いた。
 きっとある程度の下ごしらえをした状態で持ってきたのだろうが、それにしてもよくもまぁこれほどの短時間でここまで用意したものだと感心した。
 先日テレビで土鍋で炊いた飯が旨いと言っていたと話していたから、わざわざ炊飯器ではなくそれで炊いたのだろう。
 風呂敷包みの正体はこの土鍋だったらしい。
 他にも盛りつけられた皿の中には見覚えのないものも幾つかあって、あの包みの中にはこんなものまで入っていたのかと本気で感心した。
「えぇーと、あんまり誕生日らしくないですけど……お赤飯とかはありがちかなって思ったんで、一ノ瀬さんがあんまり食べる機会がなさそうな「いかにも」な家庭料理にしてみました」
 ヒトミは照れくさそうにそう言って、彼に椅子を勧めてきた。
 そして自分もその向かいの席に座る。
「じゃぁ、冷めないうちにどうぞ」
「ああ、いただきます」
 手を合わせて箸を取り、まずは焼き魚に手を伸ばした。
 次に煮物、和え物、汁物と、一通りの物を味わいながら口に運んでいく。
 普段ならば自分も一緒に箸を進めるのに、今日はどういうわけか、ヒトミの箸が全く進まない。
 まるで裁きを待つ咎人のように、じぃっ、と上目遣いに一ノ瀬を見つめて感想の言葉を待っていた。
 そんなに可愛い顔をされたらもっと焦らしてしまいたくなる。
 だから彼は敢えて感想を口にしないまま、黙々と食事を続けた。
 いや、そればかりではない。
 喋る暇も惜しいほどに美味しいというのも理由の一つだ。
 料理の温かさだけではなく、心の奥から温まるような、そんな気がした。
「どうですか?」
 一ノ瀬の箸がそれぞれの料理を二巡した頃になって、堪えきれなくなったのか、ヒトミが恐る恐るといった様子で口を開いた。
 その顔は期待より不安の色の方が濃い。
 あんまり苛めるのも可哀相かと思い直して、彼は表情を和ませた。
「味見はしたんだろう?」
「そりゃぁ、もちろんしましたけど……」
「だったら自信を持て。おまえの料理がまずいわけないだろう」
 相好を崩して答えたら、彼女は椅子を蹴たぐり倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「本当ですか!?」
「嘘を言ってどうする。ちゃんと旨いから安心しろ」
 どれもこれもお世辞抜きに本当に美味しいのだ。
 一ノ瀬の言葉に、ようやく安堵の息を漏らして、すとんと椅子に腰を下ろした。
「じゃぁ、私も頂きます」
 ヒトミは自分の分の皿に手を伸ばしながら、にこにこと食事を開始した。
「はぁっ、良かった。一ノ瀬さんに美味しいって言ってもらえて」
「何だ、そんなに自信がなかったのか?」
「自信は……ないわけじゃなかったですけど。でも一ノ瀬さんの口に合うかどうかっていうのはまた別の話じゃないですか。好き嫌いとかはあんまりないって知ってますけど、もしかしたらこの中に食べられないものがあったかもっていうのもあるし。だからやっぱり美味しいって言ってもらえるまでは不安だったんですよ」
 なるほど。作る側の人間にはそういう気苦労もあるわけか。
 一ノ瀬は改めて自分がそういう点で配慮に欠ける人間だったのだと思い知らされた。
 思えば今は亡き義弟は、食事のときに「美味しい」や「あまり口に合わない」といったことを積極的に言葉にしていた。
 あれは調理する者たちへの心配りだったのだろう。
 当時はそんなことも判らずに同意を求められるのが面倒だとしか感じていなかった。
 あの頃には気づけなかったことを、今こうしてヒトミが教えてくれている。
 彼女自身は全くそんなつもりはないのだろうが、そのことが一ノ瀬を血の通った人間にしてくれているような気がしてならない。
 最初は義弟によく似たがむしゃらさやお節介なところが目障りだった。
 麟との思い出を掘り起こされるのは苦痛でしかなかった。
 けれど今は……。
 運命なんてものを信じるつもりは毛頭なかったが、今ならば素直に思うことができる。
 もしかしたらヒトミとの出会いは、心優しかった義弟から頑なな自分への最後の贈り物だったのではないか――と。
 ヒトミだからこそ、自分を恨むことで硬く閉ざしていた唯の心を開くことができたのだ。
 それさえも麟の意思が働いているような気がするのは考えすぎだろうか。
「一ノ瀬さん?」
 いつのまにか考えに沈んでいた彼の意識を、柔らかな声が現実に引き戻した。
「やっぱり美味しくなかったですか?」
「いや、そんなことはない。ただ……おまえの料理があんまり旨くて少し感動しただけだ」
 胸の内に灯った感傷の炎を吹き消して、一ノ瀬は穏やかに表情を和ませて愛しい恋人に微笑みかけた。
 その途端、どうしたことかヒトミは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「? どうした?」
「い、一ノ瀬さんが不意打ちでそんな優しい顔するから!」
 言い訳がましく口の中でもぐもぐ言って、彼女は赤面しているのを誤魔化すように猛烈な勢いで箸を進め始めた。
 彼が優しい顔をしていたのだとしたら、そうさせたのは間違いなく自分だというのに、そんなこときっと思いもよらないのだ。そういう鈍いところもまた可愛いのだが。
「誕生日なんて、ずっと面倒だと思ってたんだがな」
「え?」
「パーティーだ何だと煩わしいことが多かったし、おまえみたいに心から祝ってくれるやつもいなかったからな」
「そんなことないですよ。弟さんは一ノ瀬さんのこと慕ってくれてたんでしょう?」
「……ああ、そうだな。俺が気づかなかっただけかもしれない」
 ほら、そうしてまた彼女は一ノ瀬に気づかなかった真実を教えてくれるのだ。
「ありがとう……今までで最高の誕生日だ」
 万感の思いを込めて言ったら、彼女は顔を赤らめながら、満更でもなさそうに口元を綻ばせた。
「それだったら、いつも以上に愛情を込めて作った甲斐もあります」
 その笑顔は本当にとびっきりのもので――これこそが彼にとってこの日一番の贈り物だと実感した。

 湯気の立ち上る食卓を挟んで、愛しい人と向かい合わせで食事をする幸せ。
 それは彼がずっと求め続けた幸せの象徴だったのかもしれない。






勢いのまま書き上げたため、微妙に何が言いたいのか解りづらい話に……(汗)
これじゃ「ツンデレ」じゃなくてただの「デレ」な気もしますが、くっついちゃった後なので
問題なしということにしておいて下さい。
そしてやはり一ノ瀬さんはまだ私にはハードルが高かったようです。
ちょっと早いですが、一ノ瀬さん、誕生日おめでとうございます!

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