触れられたいのはあなただけ

Presented by Suzume

「はい、よくできました」
 そんな言葉と共に、ぽんっ、と頭に手が乗った。
 孔明がこんな風に解りやすく誉めてくれるのは珍しい。
 頭を撫でるのはここでは玄徳の専売特許ともいえるだけに、この行動も少し意外な気がした。
 剣を持って戦う玄徳の手とは明らかに違うけれど、それでも乗せられた掌の大きさは確実に大人の男性のものだった。
 周囲にいるのが武人ばかりなこともあって普段は華奢にさえ見える師だが、この人は男の人なのだと花は改めて実感した。
「花? どうしたの?」
 ぼんやり思考の渦に沈んでいた彼女を孔明の声が現実に引き戻した。
 目の前でひらひら手を振る彼の顔にはどことなく心配そうな色が見てとれて、我に返った花は慌てて、
「何でもありません」と言って首を振った。
 まさかここで、師匠も男の人なんだなぁと実感してました、なんてことを馬鹿正直に言うわけにもいかない。そんなことをしたらどんな反応が返ってくるかわかったものではない。からかわれるのは火を見るよりも明らかだ。
「相変わらず君はぼんやりしてるなぁ」
 そう言って笑う顔も、一度意識したらまともに見ることはできなくなってしまった。
 なんていうことのないごく些細なことなのに、どうしてこんなにも胸が締めつけられるように痛むのか。
 誉めてもらって嬉しいのと、優しい笑顔にときめいたのと、それらの気持ちがものすごい勢いで身体中に広がって、このまま心臓が壊れてしまうのではないか――そんな馬鹿なことを考えた。
 頬が熱をもったように火照っていることからも、今の自分の顔がどれくらい解りやすい状態になっているのか容易に想像できた。わざわざ鏡を見て確認するまでもなく明らかだ。
 こんな顔を見られて、その理由を追及されたりしたらと思ったら、もぅどうしようもなく恥ずかしくて、花は顔を俯けて敬愛する師から半歩下がって距離を取った。
「花?」
「あ、の……」
 何か、言い訳を考えなくてはならない。それも今すぐに。
 脳味噌をフル回転させて考えるが、思考は空回りするばかりで自分の思うように動いてくれなかった。
 そうこうしている内に孔明が一歩詰めた。距離が先ほどより半歩近い。
「どうしたの? 調子悪い?」
 彼が覗き込んできそうな気配を察して、花は自分の中で何かが爆発する音を聞いた……ような気がした。
「すみません、師匠! ちょっと失礼します!」
 それからあとは自分でも何をしたか覚えていない。
 花は半ば突き飛ばすようにして師から距離を取って、後ろも見ずに部屋を飛び出した。
 背後から名を呼ぶ声が聞こえた気がしたがそれでも足は止まらなかった。
 早鐘のように鳴る鼓動は痛みを伴うほどの激しさで、呼吸すら苦しくてままならない。
 廊下をがむしゃらに走って、走って、辿り着いたのは自分に与えられた部屋だった。成都の城に入ってまだ間もないが、帰巣本能はしっかり備わっていたらしい。
 部屋に入るなりずるずるとその場に座り込んだ花は、熱く火照った頬を押さえた。ひんやりとした手のと温度差が心地良い。
「どうしよう……あんな風に逃げ出してきて、きっと師匠に呆れてるよね」
 でも、あの場はもぅ本当に逃げ出すことくらいしかできなかったのだ。
 あんな風に逃げ出たりしたら後で顔を合わせるのが余計に気不味くなるだろう、などということはあの場では全然考えられなかった。そんなことを考える余裕すらなかった。
 頭は少しだけ冷静さを取り戻してきたが、跳ね躍る心臓の方は未だ健在で、主張するようにどくんどくんと脈打っている。まるで花の心を急き立てているかのようだ。
「なんで、こんな急に……」
 呟きながら、彼女は既に自身の中に答えを見出していた。
 どうして急に孔明のことをこれほど意識してしまったのか――それは本当に他愛のない切っ掛けだった。

 玄徳の元へ書簡を届けに行った戻り道の廊下で、花は女性達の楽しげな話し声を耳にした。
 声は廊下に面した一室から聞こえてきたものだった。どうやら使用人達が雑談で盛り上がっているらしい。おそらく休憩中なのだろう、彼女達はとても寛いだ様子で、廊下を通りかかった人物になどまるで注意を払っていない。
 聞き耳を立てようと思ったわけではないが、姦しい女性達の話し声は聞くともなしに漏れ聞こえてきた。
 その内容は、うぶな彼女には大変に刺激の強い、男女の営みに関するものだった。
 もちろん花だってそういう話に全く免疫がないわけではない。元の世界でだってそういう情報はどこからともなく入ってきていたし、級友達の間でも赤裸々な経験談などが飛び交っていたのだから。
 しかし、以前はそんなものかと聞き流すことができていた内容が、今はそうすることができなくなっていた。それはひとえにこちらの気の持ちようが変わった証拠だ。
 恋を知って、愛する人に触れられる喜びを知ってしまった。
 今はまだ手を繋いだり、抱き合ったり、戯れのようなキスくらいしか経験はなかったが、決してその先に興味がないわけではない。否、なまじ興味があるだけに、聞こえてくるあけすけな内容を全て自身に置き換えて想像してしまったりなどしてしまうのだろう。そしてそんな自分が恥ずかしいやら居たたまれないやらで、花は消え入りたいような心持ちに陥った。
 これ以上聞いていたらきっと師の前に出たとき挙動不審になってしまうに違いない。
 一刻も早くこの場を立ち去るべきだと思い立ち、息を詰めて踵を返した。
「好きな人に触れられるのって特別よね」
 去り際に耳に届いたその言葉は、立ち聞きをしてしまった罪の証のように、花の心へしっかり刻みつけられた。

 それで、あの体たらくだ。
 勝手に空回って自爆だなんて、情けないにもほどがある。
「どうしよう……」
 花は途方に暮れた気分で呟きを漏らした。
 逃げ出してしまったことについてはもう仕方がない。やってしまった行動は今更消すことはできないのだし、きっとちゃんと謝れば許してもらえるだろうとも思う。
 厄介なのはその後だ。
 当然ながら孔明は自分が逃げ出した理由を尋ねることだろう。
 問題は、それに何と答えればいいのかだ。
 素直に話すことはできない。上手く説明できる自信はないし、何より恥ずかしい。
 しかし、時間が経てば経った分だけ気まずさに拍車がかかるのは明白だ。
「理由は言えません、で通すしかないかな」
 頭の回転の速さでも口の巧さでも右に出る者はいない師を相手にして、うまく誤魔化せる自信などない。それならば残された道は断固として口を噤むことくらいだ。
 納得してもらえるかどうかは別として、自分にできる対抗手段はこの程度で、それしかないのならばそれで押し通すしかない。
「よし、行こう!」
 このままぐずぐずしていたら一旦据わった肝がまたすぐふにゃふにゃになって挫けてしまいそうだったから、花は決意と共に拳を握り締めて立ち上がった。
 扉を開けて一歩外へ踏み出した途端、
「もう落ち着いた?」と苦笑混じりの声に迎えられた。
「っ!!」
 予期せぬタイミングでかけられた声に、文字通り飛び上がった。腰を抜かさなかっただけでもめっけものだった、とは後になって思ったことだ。
「師、匠……」
「ここで立ち話も何だろう? ちょっとだけお邪魔してもいいかな?」
 孔明はにこやかな笑顔を浮かべていたが、どことなく否やを言わせないような空気を纏っているように思えた。こちらに後ろめたいところがあるからそう感じただけかもしれない。
 結局、彼女は師の申し出に逆らうことはできず、そのまま部屋の中へとUターンした。
「えぇーと、なにか飲みますか? お水くらいしかないんですけど……」
「ううん、お構いなく」
 孔明は部屋の主よりもよほど寛いだ様子だ。どちらかといえば花の方がよほど借りてきて猫のような有様だった。
 自分の見慣れた部屋が、好きな人がいるというただそれだけで、何だか違う部屋に足を踏み入れてしまったような感覚だ。妙に落ち着かない。
 なにか話した方が良いだろうかと花が思ったのと、彼が、
「さっきのことだけど……」と切り出したのはほぼ同時だった。
 察しの良い師のことだから、きっとこちらの逡巡を汲み取ってくれたのだろう。
「さ、さっきはすみませんでした!」
 とにもかくにも謝らなくてはという気持ちが先に立って、花はその場で思い切りよく頭を下げた。
「そんな恐縮しなくていいよ。ボクもちょっと意地悪しすぎたしね」
「……え?」
 考えてもみなかった言葉が返ってきて目を瞬かせた。
 そんな彼女の反応に、孔明の目が悪戯っぽく細められた。
「だって、好きな女の子にあれだけあからさまに「意識してます」って態度取られたらさ、嬉しくてちょっかい出したくなるじゃない」
 何だか、今、とんでもないことを言われた気がしたのだけれど、気のせいだろうか。
 花は狼狽えて飛び跳ねる心臓を抑えるように、無意識で胸元に手を当てた。
「急ぐつもりはなかったんだけど、驚かせちゃったみたいだったから、一応謝っておこうかなと思ってね。でも、急ぐつもりはないけど、このまずっと眺めてるだけでいるつもりもないから、少しずつ慣れていってくれると嬉しいかな」
 そんな言葉と共に伸びてきた指先が、髪を一房掬って散らした。
 直接肌に触れられたわけでもないのに、その微かな感触で全身の血が逆流してしまうのではないかと思える。
「師……孔明、さん……」
 二人きりのときには名を呼ぶ約束をした。仕事の合間に抜け出してきたとはいえ、ここは私室でプライベートだ。そのはずだ。
 恥ずかしい気持ちを無理矢理追い出して、花は決死の覚悟で顔を上げた。
「わ、私も、孔明さんに触れて欲しい、です。それで、意識しちゃって、その……」
 勇気を振り絞っても自分が捻り出せる言葉はこんな程度が関の山で、そのことが悔しい。
 もっとさらっと言えればいいのに、と頭では思うのに、口はまるで重りをつけられたかのように思うように動いてくれないのだ。
 これは自分の経験値のなさが原因というより、意気地のなさの方が問題なのかもしれない。
「いいよ、無理しないで。そうやって恥ずかしがってくれるのも、見てるこちらとしては楽しいしね」
「師匠……」
「孔明さん、だろ」
 笑いながら訂正した彼は、不意に身を屈めて弄ぶように指に絡ませていた花の髪へと口づけた。
「次はどこに触れてあげようか」
 しっとりした声音に耳をくすぐられ、思わず腰が抜けそうになった。
 かくんっ、と力を失いかけた身体を、意外にしっかりした腕が支えてくれる。
「さすがにこのくらいで腰砕けになられちゃうと、これより先に進むのは今日は無理かな」
 苦笑混じりに告げられた言葉で瞬間沸騰した。
 花は反射的に顔を上げて、何か考える暇もなく、愛しい人の背に腕を回した。
「平気です!」
「花……?」
「いっぱいいっぱいですけど、でも、嫌なわけじゃないんです。孔明さんに触れてほしい。こんな中途半端な気持ちで放り出さないで下さい!」
 泣きそうになりながら懸命に告げたこちらをどう思ったのか、孔明は小さく吹き出して、花の身体をしっかり抱き締めてくれた。
「そこまで言われたらこっちも引き下がれないな。その気にさせた責任は取ってもらうよ?」
「の、臨むところです」
「それじゃぁ、急がずにゆっくり手ほどきしてあげる」
 目を瞑って、という声にいざなわれるようにそっと瞼を閉じた。
 このまま唇にキスされるのかと身構えていたが、訪れたのは瞼への口づけだった。
 くすぐったさに肩を竦めていたら、次はこめかみに、頬に、鼻の頭にと口づけの雨が降り注ぐ。
 待ちきれなくて薄目を開けたところで、待っていた場所へ彼の唇が押し当てられた。
 啄むように角度を変えて口づけられ、心と身体に情熱という名の熱が灯されていく。

 好きな人に触れられたいと思うのは自然なことなのだ。
 触れて、互いの温もりを感じ合って、気持ちを通わせたいと思うのは、それだけ深く相手を知りたいと思うからに他ならない。
 それを教えてくれるのがこの人で良かったと……花はふわふわする頭の片隅で強く思った。
「好きな人に触れられるのって特別ですね」
 脳裏に蘇った女官の言葉をなぞって告げたら、彼はどんな顔をするだろう。
 キスから解放されたら言ってみよう。
 微かな企みを胸に、花はいつもよりも甘さと情欲を帯びた口づけに身を任せた。








前に書いた師弟話とはえらく趣が違ってしまいましたが、別物として楽しんで頂ければ幸いです。
というか、前回の花ちゃんが漢前過ぎました。こっちがデフォルトです、たぶん。

私事ですが、実は誕生日なので、自分へのプレゼント的に脳内師弟祭を開催しつつ書き上げたのでした(笑)
孔明×花バンザイ!!

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