ねこのように Presented by なばり みずき
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にゃあ、という声が聞こえた気がして花は辺りを見回した。 おそらくどこかから野良猫が紛れ込んできたのだろう。城の使用人や兵達が気ままに餌をやることもあるだろうし、もしかしたらそれを当て込んで住み着いているのかもしれない。 耳を澄ませながら庭先に降り、草むらの影を覗き込む。 どうしても見つけようなどという気概があったわけではない。覗いて見つかればラッキー、一回りしてみていなかったら諦めよう、くらいの心持ちだ。 そうして二つめの繁みを覗き込んだ時、果たしてその姿を発見した。成猫と呼ぶにはまだ小さいが、仔猫というにはだいぶ育っている白い猫である。警戒するように小柄な身体を強張らせたその猫は、金色の瞳で油断なくこちらを窺っている。 「怖くないよー、出ておいで」 少し離れたところにしゃがんだ花は、チチチ、と舌を鳴らしながら呼んでみた。 城で餌をもらっているのだとしたら人慣れしている可能性は高いが、初対面の人間を相手にすぐ警戒を解くかどうかは猫の性格次第だろう。花としては駄目で元々、来なかったらそれで仕方ないといった程度の気持ちだ。 何度か声を掛けたり、落ちていた小枝などを振って興味を誘ってみるが、逃げこそはしないものの一向に寄ってくる気配はない。 「うーん、やっぱり食べ物とかで釣らないと出てこないかな」 諦め半分で立ち上がろうとした時、ふっと影が差した。 「お、猫か」 掛けられた声に振り返ると、そこには玄徳の姿があった。猫に夢中で全然気づかなかった。 「花が餌をやってるのか?」 「いえ、私もたまたま見かけて……」 返事をしている間に、彼は花のすぐ隣へ同じようにしゃがみ込んだ。そうすると普段の身長差が一気に縮まる。同じくらいの目線の高さで見る玄徳は何だかちょっと新鮮だ。 「どれ」 端整な横顔に見とれている花には気づかず、玄徳は猫の方へと手を差し出した。それから先程の花と同様に舌を鳴らして呼ぶ。 新たに増えた人間に、猫は最初の数秒こそ微かな警戒の様子を見せたが、程なくして恐る恐るといった態ながらこちらへ歩み寄ってきた。そしてそのまま甘えるように玄徳の手に頭を擦り寄せる。 「凄い、あっという間に手懐けちゃった」 思わず洩らした感想に、 「おいおい、人聞きが悪いな」 玄徳は猫の喉を撫でながら苦笑した。 猫を構うその手は優しく、見つめる眼差しには慈愛が溢れている。 「きっと猫にも解るんですね、玄徳さんは頼りになる人だって。だからこんなに安心しきった顔してるんですよ」 動物というのはそういう勘が鋭いというし、あながち見当違いでもないだろう。 白猫はすっかり警戒を解いたようで、うっとりと眼を細めて喉をごろごろ鳴らしている。餌も何もなくこれだけ短時間に懐かせてしまうのある種の才能といっても良いかもしれない。 「人徳ならぬにゃん徳ですね」 茶化すように言いながら、花は自らも手を伸ばして小さな頭を軽く撫でた。自分が手を出したら逃げてしまうかとも思ったが、玄徳の手がよほど気持ちいいのか、甘えた顔をしたままそんな素振りは見せない。 思えば自分もそうやって彼に守られてきた一人だ。 右も左も判らない山中で道を示してくれたのは孔明だが、その後で花を拾ってくれたのは玄徳に他ならない。 頼ってくる者を無条件で受け止める。その度量を、もしかしたら猫も見抜いたのではないだろうか。決して考えられないことではない。 「良かったね、玄徳さんに構ってもらって」 花が話し掛けると、白猫はまるで言葉が通じたかのように、にゃあんと鳴いて尻尾を振る。 「ほら、この子も玄徳さんに構ってもらえて嬉しいって言ってますよ」 笑いながら振り向くと、ひどく優しげな眼差しの玄徳と目が合った。その瞳は猫を見つめていた時よりも僅かに甘い。 「玄徳さん? どうかしましたか?」 不意打ちで大好きな笑顔を向けられて胸がとくんと跳ねたが、動揺を悟られないように極力普通の顔をして訊く。でも頬は熱を帯びている気がするし、うまく取り繕えている自信はない。 「可愛いなと思ってな」 「ああ、猫が……」 「いや、おまえがだ」 誤魔化そうとしたのを正面から告げられ、花は返す言葉を失って俯いた。 こんな至近距離で、そんな甘い眼差しでそんなことを言われたら――。 勝手に踊り出す鼓動とますます熱を帯びる顔が気になって顔を上げることも出来ない。 「玄徳さん、そういうのは反則です」 「何が?」 やっとの思いで紡いだ抗議の言葉もあっさり躱されてしまい、花は恥ずかしさにますます身を縮ませた。 「そんな風に言われたら……」 私も猫みたいに甘やかして欲しくなっちゃうじゃないですか。 口をついて出そうになった言葉はギリギリのところで押し留めた。まかり間違ってそんなことを口走ってしまったら、それこそ恥ずかしくて顔を見ることも出来なくなってしまう。 「俺は猫よりもおまえの方が可愛いと思うし、おまえがこいつみたいに甘えてくれたら嬉しいんだがな」 玄徳はこちらの心を読んだのではないかというような言葉をさらりと吐くと、苦笑の気配を残して立ち上がった。 「さて、俺はそろそろ退散するか。これ以上ここにいてそんな可愛い顔を見せられたら、我慢が利かなくなって止まらなくなりそうだ」 冗談めかした口調の端々に笑い飛ばせない何かが滲んでいるように聞こえるのは自惚れだろうか。 当の玄徳はといえば、こちらの胸の高鳴りなどお構いなしといった風情でけろりとした顔をしている。そのまま立ち去りそうな気配を察して、花はその場にしゃがんだまま反射的に彼の服の裾を掴んでいた。 「花?」 「あ、えっと……」 名前を呼ばれて狼狽える。 何も考えずに掴んでしまった手を慌てて離すが、引き止めてしまった事実は消えない。そして咄嗟のことで適当な言い訳の言葉も浮かばない。 もうちょっとだけ一緒にいたい。猫を構うついででいいから、あとちょっとだけ……。 胸の奥に浮かんだ願いは喉の奥で飲み下した。 優しい玄徳は、自分がその言葉を口にしたならきっと笑ってそれを叶えてくれることだろう。 けれど、花は彼がどれほど多忙か知っている。自分のわがままで足を引っ張るような真似は絶対にしたくない。そうでなくても疲れているはずなのに、余計な気を遣わせたくなどなかった。 だからすぐに掴んだ手を離し、 「すみません、何でもないんです。お仕事頑張って下さいね」 笑顔を浮かべてそんな無難な言葉で取り繕った。 もっと気の利いたことを言えれば良かったのだろうが、さすがにそこまでは気が回らない。今はただ、自分がうまく笑えていることを祈るばかりだ。ぎこちなかったりしたら、きっと心配を掛けてしまう。 足を止めた玄徳は何か言いたげにこちらを見つめていたが、やがて思い直したように花の方へ向き直ると不意にその場へ膝を突いた。 視線の高さを合わせ、見透かすような瞳でまっすぐ見つめられる。誤魔化すことを許さない、その強い眼差しに抑えた気持ちが揺さぶられそうだ。 「なんでもないことないだろう。そんなに俺は頼りないか?」 そんな切なそうに訊かれて、どうして隠し通すことが出来るだろう。 花はもう繕うことも出来なくなって、へにゃりと情けない顔で笑った。 「だって、玄徳さんがどれだけお仕事忙しいの知ってるのに、私がわがまま言って邪魔するわけにいかないじゃないですか。そうでなくても役立たずなのに」 そう言を継いだ次の瞬間、 「……っ!」 声を上げる間もなく抱き竦められていた。 猫が驚いたように走り去っていくのを目の端で捉えながら、その強く逞しい腕に身を委ねる。 とくんとくんと響いてくる鼓動は花のそれと同じくらいのスピードで、ドキドキしているのは自分だけじゃないのだと思ったら肩の力がふっと抜けた。 (今なら……今、ちょっとだけなら、素直に甘えても平気かな? 玄徳さんの邪魔にならないかな?) 優しく抱き締めてくれる腕が、猫を構っていた時のように髪を撫でる指が、今ならそれを許してくれそうな気がして――花は勇気を出してほんの少しだけ素直になってみることにした。 しがみつくように彼の背に手を回し、甘えるように胸元へ額を擦りつける。 「花……」 掠れた声が降ってきて、熱い口唇が耳朶に触れた。 「そうやって、たまには甘えてくれ。おまえはいつも謙虚で、いろいろ我慢しすぎるところがあるだろう? だが、俺はおまえに甘えられたい」 熱を帯びた声で囁かれ、花はこのまま自分がとろけてしまうのではないかという錯覚に陥った。 胸の奥が切なく痛む。甘い痛みに苛まれて鼻の奥がツンと痛い。 「あんまり甘やかさないで下さい。幸せすぎて泣きそうになっちゃう」 花がやっとの思いでそう言ったというのに、玄徳は何を思ったか、抱き締める腕に力を込めた。 「お、まえは……っ」 何かを堪えるような、絞り出すような声が耳を打つ。 自分は何かまずいことを言ってしまったのだろうか? それとも困らせるようなことを? 困惑しながら身じろぎするものの、息をするのも苦しいくらいの力で抱き締められているため彼の顔を見ることも叶わない。 「玄徳さん?」 「頼むから……」 「え?」 「頼むから、そういう可愛いことを言うのはもっと時と場所を選んでくれ」 苦しそうな声音で告げると同時に、玄徳は腕の力をふっと緩め、それから噛みつくような勢いで深く口づけてきた。 「んんっ」 びっくりして洩れた声も飲み込まれる。 何度も、何度も、まるで渇きを癒すかのように角度を変えて口づけられて、花はただ振り落とされないようにと必死で彼の背にしがみついた。そうでもしなければ空の彼方へと飛ばされてしまうのではないかとさえ思えて。 貪るような激しさはあるものの、その口吻はけっして乱暴なものではない。口腔内に忍び入ってきた舌も、口唇への甘噛みも、頬に添えられた掌の熱さえも、狂おしいくらいの愛情を伝えてくれる。 やがて口唇を離した彼は、精悍な貌を申し訳なさげに歪めて「すまん」と小さく詫びた。 花はといえば肩で息をするのがやっとといった態である。力が入らずぺたんとその場に座り込んだまま、何とか首を横に振る。 「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで」 そうは言ったものの、腰は抜け掛けているし、立ち上がることもままならない。 「すまない」 こちらの状態を察したのだろう、玄徳がもう一度謝罪の言葉を口にした。 「部屋まで送ろう。このまま座り込んでいては冷えてしまうだろう」 「だ、大丈夫です! すぐに落ち着きますから!」 すぐにも抱き上げようとする腕を慌てて拒む。そんな姿を人に見られたら恥ずかしいことこの上ないし、第一理由を訊かれたりしたら一体何と答えればいいのか。 しかし玄徳も玄徳で、自分の行いの所為でと罪悪感を覚える部分があるのだろう。あっさり退いてくれそうにない。変なところで意外と頑固なのは花ももう知っている。 どう言えば納得してくれるだろう。 考え考え、花は情けなく眉を八の字にして口を開いた。 「その……すぐに落ち着くので、それまで側についていて下さい」 蕩けかけた脳みそが弾き出したのは自分の願望が如実に現れたなんともいじましい言葉だった。我ながら、もっとマシな案はなかったのだろうかと軽い自己嫌悪に陥る。 けれど、少なくともこれだったら部屋に運んでもらうほどの手間暇を掛けさせることはないはずだ――たぶん。 言い訳がましく思いながら上目遣いで見上げると、玄徳はしょうがないなというような微苦笑を浮かべていた。呆れられているような雰囲気ではないことにホッと胸を撫で下ろす。 それから花が復活するまでの数分の間、頃合を見計らったかのように戻ってきた猫を二人で構って過ごした。 ぎこちない雰囲気を絶妙な形でほぐしてくれた猫にこっそり感謝しながら。 変に意識することなく素直に喉を鳴らして玄徳に甘えられるその白い猫を、実はちょっとだけ羨ましく思ったと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。 呆れるか、笑い飛ばすか、それとも……。 去り際、猫はまるでそんな花の気持ちを見透かしたかのように、ぺしりと尻尾で足を叩いて行った。 まるで「しっかりしなさい」と言われたような気がして複雑な笑みが浮かんでしまった。 (そうだね、少しずつわがまま言ったり、甘えたり出来たらいいな) 悠然と去っていく小さな白い後ろ姿を見ながら、花は心の中でそっと呟いた。 |
でこチューとかほっぺチューとかソフトめにいくつもりだったんですが 玄兄があっさり突っ走ってしまって野望が潰えました。 まあ、玄兄だからしょうがないと思うことにします(自分の手綱捌きが悪かった件については棚上げする方向で) |