君に幸あれ Presented by なばり みずき
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停戦協定の詳細を詰めるために長安を訪れていた孟徳は、回廊の先に見知った少女の姿を見つけて足を止めた。 こうして直接顔を合わせるのは烏林での敗走の折り以来だろうか。 こちらに向かって歩いてきていた花もまた孟徳に気づいたらしい。 「花ちゃん、久しぶりだね」 先に声を掛けたのは孟徳の方だ。 彼女の智略によって孟徳の軍は数々の敗戦を喫したが、それはそれ、これはこれだ。それに不思議と彼女を恨む気にはなれない。 衒いなく接した孟徳に対し、 「お久しぶりです。孟徳さんもお元気そうで良かったです」 花もまた無邪気な笑顔を向けてきた。 こういうところは相変わらずだ。変わっていないことに安堵する。 ゆっくり話をするような間柄ではないが、せっかく会えたのだから少しくらい立ち話をしたところでバチは当たらないだろう。 とはいえ、ここでは官吏達の目もあり、余計な詮索を招きかねない。痛くもない腹を探られるのはこちらも御免被りたいし、花を下らない中傷に晒すのも本意ではない。 だから、孟徳は言葉巧みに彼女を誘って庭先へと連れ出した。 「ねえ花ちゃん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」 「私で答えられることなら……」 返された言葉と表情からは、下手なことを言って言質を取られないように、という警戒が透けて見える。 以前襄陽で会った時にはどこもかしこも隙だらけといった感じだったのに、変われば変わるものだ。食えない師匠の指導によるものか、はたまた歴戦をくぐり抜けてきたことによって彼女自身が成長したゆえか。 尤も、そうでなければ今の状況は訪れてはいまい。現在の情勢を招くにあたり、多かれ少なかれ花の力があったのは疑いようのない事実だ。 孟徳は胸に宿った複雑な感情を綺麗に隠し、目の前の少女に悪戯っぽく微笑んでみせた。 「花ちゃん以外には答えられないことだよ。でも、無理強いするつもりはない。君が答えたくないなら答えなくていい。前にも言っただろう、君の嫌がることはしないよ」 「じゃあ……答えられることなら答えます。何ですか?」 こちらの言葉を受けて、花の警戒が僅かに緩む。こういう素直さは健在なようで何よりだ。 「玄徳の妻になるというのは本当?」 単刀直入に訊ねると、 「なんで孟徳さんがそんなこと知ってるんですか!?」 花は大袈裟に思えるほどの驚きようで訊き返してきた。 「このくらいの噂話を手に入れることなんかわけないよ。戦も政治もより多くの情報を持っている者が事を有利に進められるものだからね。それで? 否定しないということは事実だってことなのかな?」 「はい。こうして師匠の弟子として長安に来るのもこれが最後になると思います」 最初から隠し立てするつもりはなかったのだろう。迷いのない表情ではっきりと頷く。 「なるほど、それで今回は君も来たというわけか」 花と献帝の間にはどうやら何某かの縁があるらしい。事の真偽は不明だが、献帝奪取の際に彼女も関わっていたのは事実だし、婚儀によって玄徳軍の軍師を辞するにあたり帝への挨拶のために同行したというところだろう。 あの風変わりな少女が本当に――名実共に玄徳のものになってしまうのかと思うと、孟徳は何とも言えぬやりきれなさを覚えた。 自分がこの少女に抱いているのは恋愛感情などではない。なかったはずだ。 興味本位で生命を助け、たった数日過ごしただけの異国の少女。そこにあったのは単なる好奇心のみで、それ以上でも以下でもなかったはずなのに、まるで気に入りの玩具を横から掻っ攫われたかのような苛立ちを感じる。 だから……ほんの少し意地悪な気持ちが湧いてしまったのかもしれない。 孟徳は邪気のない風を装うと、まっすぐ彼女の瞳を覗き込んだ。 「玄徳のどこが好きなの?」 彼女がどこと答えても、否定の言葉を紡いでやるつもりでいた。 花にとってどんなに素晴らしい男に見えていようとも、長年敵として渡り合ってきた自分にはそれを打ち消すことなど造作もない。長所というのは、見方を変えれば短所にもなり得るものなのだ。 そうして少しばかり傷つけた後、もっともらしく謝罪して優しく慰めてやればいい。 つけいる隙があるようなら引っ掻き回してやるのも面白そうだし、その程度で壊れる仲なら所詮その程度の絆だったというだけの話だ。 そんな孟徳の心裡を知ってか知らずか、花は可愛らしく頬を染めて顔を俯けた。 「……わからない、です」 「は?」 思わず訊き返したのは計算でも何でもなく、単に予想外の答えだったからだ。 この年頃の少女なら、さぞ夢見がちに相手の美点を挙げてくるのだろうと思っていた。それが見事に覆されたのだ。 孟徳が入手した情報によれば、二人の仲は政略的なものでは全くなく、互いに想い合っての婚儀だと話である。そうであるなら尚のこと、うんざりするような惚気を吐き出してくるものだろうと思われた。そして、その甘ったるい理想と幻想に満ちた恋心を根元からぽっきり折ってやろうと目論んでいたというのに――。 「わからないって……それって、つまり特に好きなところはないってことかな?」 花が言いたいことの本質がそんなものじゃないというのは薄々解っていたが、孟徳は敢えてそんな意地悪な訊き方をした。もしもそれで言葉を詰まらせるようなら楔を打ち込んでやろう。 しかし花はふるふると首を振ると、 「そういうわけじゃないです。自分でもうまく言えないんですけど……。玄徳さんのいいところはいっぱあります。好きだなって思うところも、それこそ数え上げたらキリがないくらいたくさんあるんです。でも、その中の『どこ』に惹かれたかって訊かれると焦点がぼやけちゃうっていうか……」 もどかしそうに、でもそれ以上に幸せそうに表情を緩ませてそんなことを言う。 それは、言い方を変えれば、これ以上ないほどの惚気だった。好きなところを絞りきれないくらい惚れ抜いていると言っているようなものなのだから。 理解していて言っているなら大したものだが、花の表情から察するに、自覚してのことではないのだろう。 とはいえ、横槍を入れるのも馬鹿馬鹿しくなるほどの惚気ぶりであることは間違いない。 (それに――こんな幸せそうな表情見せられちゃなあ……) 玄徳は憎らしいことこの上ないが、好ましく思っているこの少女がこんなにも幸せそうな表情をしているのを、自分のつまらないやっかみで曇らせてしまうのはやはり心苦しい。 孟徳自身、自分にそんな殊勝な感情があったことは意外だったが、警戒していて尚まだ無邪気さを残したまま接してくれる花を思えばそれも仕方ないように思えた。毒気を抜かれたというのが一番近いかもしれない。 「悔しいなあ」 「え?」 「君にそんな表情させるのが玄徳の奴だってことがさ。俺の方が絶対イイ男なのに。ね、今からでも俺に乗り換える気ない?」 「ないです。孟徳さんも確かにいい人ですけど、私にとって一番はやっぱり玄徳さんなので」 とろけるような笑顔できっぱりそう言い切る辺りがまた心憎い。 これ以上無粋な真似をするのは己の矜持にも反する。 孟徳は軽く吐息すると、 「それは残念。でも、もしも玄徳に愛想を尽かしたらいつでも俺のところにおいで。歓迎するよ」 おどけたように肩を竦めて茶目っ気たっぷりに微笑んだ。 それから花の手を取って、想いの丈を込めて握り締める。 「幸せにね」 孟徳が告げると、彼女は噛みしめるようにしっかりと頷いた。 視線が交わったのはせいぜい鼓動三つ分くらいの間だったが、別れを惜しむには充分すぎる時間だ。 「それじゃあ、そろそろ戻らないと玄徳さんも師匠も心配するのでこれで失礼します。孟徳さんもお元気で」 立ち去る背中は毅然としていて、決してこちらを振り返ることはない。 胸に宿る淋しさは、互いの立場を思えばこんな風に思うのはお門違いも甚だしいだろうが、親しい友の旅立ちに際する寂寥感に程近かった。 抱いた想いは恋情などではない。それは断言できる。だが、他人を信じられない孟徳にしては珍しい感傷であるのは間違いない。 もしかしたら――何かが違っていれば、この少女の隣にいたのは自分だったかもしれない。そんな馬鹿馬鹿しいことを思ってしまうほどに。 「逃がした魚は大きかった、か」 誰に言うともなく呟くと、孟徳もまた、彼女に背を向けて歩き出した。 自分にとってほんの少しだけ特別だったらしい、可愛い少女の幸せを祈りながら。 |
フォルダを漁っていたらアップし損ねてたらしいのが出てきたのでサルベージしました。 というわけで、余話こと見守る人々シリーズ、孟徳篇です。 玄兄ルートだと孟徳さんは花ちゃんを「興味深い子」くらいの認識だろうと思いますが 玄徳が気に入らないからささやかな嫌がらせを講じたりはしそうだなあ、と。 ていうか、個人的には、玄兄ルートでも孟徳さんとの一騎打ち的なシーンが欲しかったです(笑) |