差し出口

Presented by なばり みずき


 その日、花は孔明に請われて久しぶりに彼の執務室で資料の仕分けを手伝っていた。
 玄徳との婚儀を済ませた後、当然ながら軍師見習いの身分は返上し、実務からはすっかり遠ざかっていたのだが、この日はどうにも人手が足りないということで急遽お呼びが掛かったのだ。
 もともと邸の奥で日々を大人しく過ごすような柄ではなく、忙しく立ち働いている方がよほど性に合うタチである。かつての師からの頼みを二つ返事で快諾し、現在に至るという次第だ。
 とはいうものの、いくら職務とはいえ、さすがに以前のように二人きりというのは風聞に関わるということで、この場には子龍の姿もある。
 なんでも花が実務を退いてからは、何やかやと孔明の手伝いに駆り出されることも多いらしい。隙を見つけてはサボろうとする孔明を諫める様子も堂に入ったもので、いつも口八丁手八丁で丸め込まれてしまっていた花とは大違いである。
「ねえ、花、ボク喉が渇いたな」
「あ、水差しのお水ももうありませんね。ちょっと待って下さい、入れてきます」
「奥方様、私が行ってまいります」
 すかさず子龍が立ち上がり、花の手から水差しを取り上げる。辞する間もない早業だ。
「あ、それなら子龍殿、悪いんだけどついでに厨で何かつまむ物をもらってきてくれるかな。花も小腹が空いた頃合でしょ?」
「師匠」
 そうでなくても彼は本来の仕事や訓練の時間を割いて手伝ってくれているのだ。調子に乗ってあれもこれもと頼んでしまうのでは子龍に申し訳ない。
 小声で窘めた花だったが、孔明の方はどこ吹く風で、
「遠慮はしてるけど否定はしない、と」
 にんまり笑ってそんな風に追い打つ始末である。
「あ、あの、子龍さん、大丈夫ですから……」
 慌ててそう言いさした花だったが、
「ついでですから奥方様はお気になさらず。厨の者に何か見繕わせましょう」
 子龍は生真面目な顔でそう言うと、目礼をして部屋を出ていった。
「もう、師匠ったら……あんまり子龍さんこき使っちゃ駄目ですよ」
「別にこき使ってなんかいないよ。今日は雑用を手伝ってくれるって話だったから、その通り仕事してもらっているだけで」
「でも子龍さんだって、本当は自分のお仕事があるのにわざわざ手伝ってくれてるんですから……」
 全く悪びれずにそんなことを言う師に花は言い聞かせる口調で言を継ぐ。しかし当の孔明ときたら柳に風と受け流すばかりでちっとも話にならない。
「ところで花、いい機会だから訊いておきたいんだけど」
「何ですか?」
 こちらの文句を聞き流されたことで些か仏頂面で応じたが、孔明はそれまでのふざけた様子を一変させ、至極真面目な表情(かお)でこちらに向き直って口を開いた。
「立ち入ったことを訊くようだけどさ、花、玄徳様との夜の営みはどうなってるの?」
「夜の、って……はあっ!?」
 あまりにもあけすけな質問は予想だにしていなかったもので、花は思わず手にしていた書簡を取り落としてしまった。
「な、何言い出すんですか、いきなり!」
 動揺のあまり声を裏返らせて噛みつく。
 タチの悪い冗談の類と思って睨んでみたものの、孔明は至って真剣な表情で、花の反応を面白がっているわけでもからかっているわけでもなさそうだ。
「何って、お世継ぎの話だよ」
「世、継ぎ……」
「そう。今は情勢も落ち着いているけど、曹孟徳にしろ孫仲謀にしろ、いつまでも大人しくしているとは限らないからね。平和な今の内に心配の種は減らしておくべきでしょ。お世継ぎの問題は我が軍の最大の関心事だよ」
 サラリと告げられた言葉には悔しいが説得力があった。
 感情を優先させて噛みついた自分の子供っぽさを否が応もなく自覚させられる。
 実を言えば、こういう話を持ちかけられるのは孔明が初めてではない。年配の武将達は酒の席などで悪気なく「やや子はまだですか」とせっついてくるし、芙蓉からも折に触れ探りを入れられている。
 玄徳からは、もう暫く二人の時間を大事にしたいから急ぐことはないと言われているが、よりにもよって孔明からこんな話が出るあたり、もうそんな悠長に構えてはいられないのかもしれない。
 と、俯く花の耳に、苦笑とため息の中間くらいの吐息が聞こえた。
「とはいえ、こればかりは策を弄してどうにかなる問題でもないからね。ボクに出来ることと言ったらせいぜい発破を掛けて頑張ってもらうくらいなわけだけど」
 茶化すような軽い口調は、強張った花の心身を和らげるためのものだろう。いかにも気を遣ってますという態ではない、こうした気の配り方はさすがに孔明だ。
 見上げた笑顔は、気負う必要はないよと言ってくれているようで、心にじんわりとした温かさが広がる。
「ご心配ありがとうございます」
 噛み締めるように告げると、孔明は照れ隠しのように咳払いを一つして、それから見慣れた人の悪い笑みを浮かべて見せた。
「もし何か困ったことがあったら相談しな。ボクは君の師匠なんだからさ。まあ、そうは言ってもこの件ばかりは手取り足取り指導するってわけにもいかないんだけど。いや、もちろん玄徳様と君に是非にと請われたら協力は惜しまないけどね?」
 ――前言撤回。
「師匠、そういうのはセクハラって言うんです!」
 ほっこりした気分が台無しだ。
 握り締めた拳を震わせて詰め寄ると、ちょうど戻ってきた子龍が室内の様子を一瞥して吐息した。
「孔明殿、また奥方様を困らせておいでなのですか」
「困らせてはいないよ。ちょっと怒らせたかもしれないけど」
「尚悪いです。あまり度を過ぎるようでしたら玄徳様にご注進させて頂きますのでそのおつもりで」
「えぇー? 相変わらず子龍殿は融通が利かないなあ。これは師と弟子の心暖まる交流だよ?」
「師匠、調子のいいこと言って誤魔化さないで下さい! 今のは断じてそんなんじゃありませんでした!」
 涙目で反駁したのは、うっかり感動しかけてしまったのが悔しかったからなのだが、それを見た子龍の表情は更に一段険しさを増した。
「いくら師弟の間柄とはいえ、奥方様を泣かせるような言動があったとなっては黙ってはおられません。すぐにも玄徳様にご報告させて頂きます」
 言うなり踵を返す子龍に泡を食ったのは花の方だ。
「ちょッ! 子龍さん!?」
「花、彼は本気だよ。煽ったのは君なんだから、自分でちゃんと止めてきてよね。じゃなきゃ、ボクは玄徳様の刀の錆びになってしまうかもしれない」
 君は大事な師匠の命が露と消えてもいいの?
 そんな風に畳み掛けられ、花は弾かれたように部屋を飛び出した。
 いくら何でも玄徳がそんな無体な真似をするとも思えないが、報告者が子龍となれば信憑性は高いと判断され、もしかしたら何か罰を食らうくらいはするかもしれない。
 困ったところも多い師匠だが、たかだか冗談口で処罰されるのは忍びない。たとえそれがどんなにタチの悪い冗談であったとしても、だ。
 ともあれ今は何を置いても子龍の誤解を解いて、玄徳への報告を思い留まらせねばならない。
 花は思案を巡らせながら、足早に回廊を行く子龍の背を追いかけた。

「やれやれ、どうやら発破を掛ける相手を間違えたかな。でも、君が幸せなら、もう暫くこのままでもいいかもね。……さて、それじゃあ他ならぬ愛弟子と敬愛するわが君のために、口やかましい老臣達の突き上げを躱す算段でも立てますか」
 部屋に一人残された切れ者の名軍師は、そう独白して笑みを深くしたのだった。








※ペーパーより再録(初出 2013/10/14 ラヴコレクション2013 in Autumnにて発行)
ラヴコレ2013秋にて開催された玄花プチコレのスタンプラリー用ペーパーとして書いた玄花前提の日常余話です。
師弟の掛け合いは書いていてすご〜〜く楽しかったので、機会があったらまた書きたいなあ。
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