あなたとともに

Presented by Suzume

 あの本の中での旅を終えて無事にこの世界へ戻り、雲長こと長岡広生が転校してきて数日のときが過ぎた。
 運命の再会を果たした二人が恋人同士となったのはごく自然の成り行きといっていいだろう。
 そうして、彼らは今日も、この数日の間にすっかり慣習と化した放課後のデートを楽しんでいた。
 デートといっても特にどこかへ遊びに行くわけではない。ただ少しだけ回り道をして共に下校をするだけというごく健全なものだ。一応の名目として、まだこの界隈に不慣れな彼を花が案内して回るという大義名分を掲げているが、要するに一緒にいられるだけで満足なのである。
 この日は広生の見晴らしの良い場所に行きたいというリクエストに応えて、学校から程近い公園へ案内した。高台になっているからわりと遠くまで見渡せる、この辺りでは一番の絶景ポイントだ。
「へぇ、学校の近くにこんな場所があったんだな」
 彼は端整な顔に和やかな笑みを浮かべて沈みゆく夕陽に目をやった。
 花も並んでそれに倣い、オレンジ色の光に照らされた広生の横顔を盗み見た。
 本の中の世界ではそれなりに長い時間を共に過ごして、こうして横顔を眺めることも少なくはなかった。
 けれど今ここにある横顔は彼女の知るものとはとてもよく似てはいるものの、やっぱり微かに違っていて、それはどうしてか花に不思議な気分を味わわせた。
 視線を感じたのだろう、彼は不意にこちらに向き直って、
「ん? どうした?」と尋ねた。
 声も、同じようでいて少し違う。
 自分よりずっと年上だった雲長と違い、広生は同い年だ。精神年齢については同学年の男子などよりよほど大人びているが――もっとも雲長だった頃の彼も実年齢より老成していて、よく芙蓉に年寄りくさいと煙たがられていたが――身体の方はまだ成長途中で、面差しは少年らしさが抜け切れていないし、声も花が覚えているより少し高い。自分の知る雲長とは違っていて当然だ。
「花?」
 訝しげに名前を呼ばれてはっと我に返った彼女は、夢から覚めたように瞬きを繰り返した。
「な、何?」
「聞いているのはこっちの方なんだけどな。どうかしたのか?」
「どうかって?」
「いや、あんまりまじまじと人の顔を見てるから。何かついてるか?」
 苦笑混じりにそう聞いた彼に首を振る。
「そうじゃなくて、なんか、改めて、同い年の男の子なんだなぁって思って」
 特に他意はなかったので、思ったままそう口にしたのだが、広生の方はそうは思わなかったらしい。
 花の言葉を耳にした彼は、少しだけ痛そうに顔を歪め、もしかして、と前置きをした上で、
「同い年でがっかりさせたか?」と聞いてきた。
 その表情に微かな寂しさが滲んでいるのを見て取って、慌ててかぶりを振った。
「そんなことない! そういうんじゃなくて……なんか、若い雲長さんが新鮮で」
 口に出したらそれが一番しっくりきた。
 そう、違和感というよりは新鮮だったのだ。
「若い雲長って、おまえ……」
 その表現が面白かったのか、広生は一度反芻した後、小さく吹き出した。
「えっ、笑うようなことかな? だって、広生くんはこれから私の知ってる雲長さんみたいに成長していくわけでしょう? 好きな人の成長の過程って、普通はアルバムで見せてもらうくらいしかできないけど、私の場合はそれをリアルタイムでずっと見ていかれるんだよ。あ、そう考えたらなんかものすごく得した気分」
 笑われた気恥ずかしさを誤魔化すように、思いつくまま言葉を並べていったものの、我ながらそれはとても素晴らしい発見のように思えた。
 目を輝かせて力説した花に、彼は柔らかく表情を和ませた。そこには先ほど浮かんでいた影は見受けられない。
「おまえのそういう感性はちょっと独特だよな。どこまでも前向きで、救われる」
 噛みしめるようなその言葉と穏やかな笑顔に花の鼓動がとくんっ、と跳ねた。
「……ずるい」
 思わず漏らした言葉に、広生が問うように眉を上げた。
 そういう表情は彼女のよく知る雲長とそっくりで、それもまたずるいと思う。
「何がずるいんだ?」
「広生くん、今から既に雲長さんモードなんだもん。同い年ならちょっとは太刀打ちできるかと思ってたのに、やっぱり私ばっかりどきどきさせられて……ずるいよ。しかもこれから更にいい男になっていっちゃうわけじゃない? 私、どう頑張っても追いつけないよ」
 こんなことを言って子供のように頬を膨らませるしかできない自分が尚悔しい。
 花は波立った気持ちを抑えるべく、きゅっと唇を噛みしめて拳を握り締めた。
「……おまえなぁ」
 嘆息と共に吐き出されたのは呆れたような声だった。
 さすがに調子に乗りすぎただろうか、と遅ればせながら後悔の気持ちが湧いてきたが、だからといって一旦口に出してしまった言葉は戻らない。
 とはいえ、気を悪くさせてしまったのだとしたらやはり謝るべきだろう。
 思い返せば、あの世界でも自分は結構な数の失言をしてしまっていた。一度などはその口が禍して孫仲謀の下で牢に入れられたこともあった。その都度助け船を出してくれていたのは雲長で、その度に呆れられたものだ。
 きっと今も慣れ親しんだあの呆れ顔を浮かべているのだろうなぁと思いつつ、おそるおそる視線を向けた花だったが、その予想は見事に外された。
 口の中で用意していた謝罪の言葉が思わず宙に浮いてしまったのは、その予想外の反応によるものが大きい。
「こ、広生くん……?」
 彼は口元を押さえ、頬を染めてそっぽを向いていた。
 こんな風に判りやすく照れている姿は、現実世界で再会を果たしてからは元より、あの本の世界でさえもお目にかかったことはない。
「お、まえは……そうやって思ったことを何でもぽんぽん口にするのはやめてくれ。こっちの心臓が保たないだろうが」
「えっ!? だって、私……そんな照れるようなこと言った?」
「言った。そうでなかったら、何で俺がこんな……くそ!」
 口の中で小さく悪態を吐いたかと思ったら、広生はまだどこか照れを含んだ表情のまま、花の身体をぐぃっと抱き寄せた。
「ずるいのはおまえの方だろう」
「ちょっ……広生くん!?」
「おまえは今でも充分いい女だ。俺みたいな意気地なしにはもったいないくらいのな。こっちは花に相応しい男になりたいと思って、これからどうやって努力していったらいいかと考えているというのに……」
 強く抱き締められ、耳元でそんなことを熱っぽく囁かれて、思わず腰が砕けてしまいそうだ。
 しかもこんな風に密着しているものだから、唐突にあの世界で最後に交わした口づけまでが脳内にフラッシュバックしてしまった。たぶん彼の体温が、力強いその腕が、花にその記憶を甦らせたのだろう。
 そんなこちらの動揺など露ほども気づかぬげに、彼は耳朶に唇を寄せた。
「俺がおまえに恥ずかしくない男になれるまで、隣で見ていてくれ。おまえの知る雲長と同じ歳になる頃には、きっと今よりはずっとましになっているから」
 広生が喋る度に吐息に耳をくすぐられ、至近距離で囁かれる掠れた声は花の胸を否が応もなく締めつけた。
 心臓はもうパンク寸前で、今にも張り裂けそうだ。
「広生くん……あの、解ったから、腕ゆるめて。なんか、口説かれてるみたいで……」
 しっかり抱き竦められていて身じろぎもままならない彼女は、小さな声で懇願した。
「みたいじゃない、口説いてるんだ」
 はっきりそう断言した彼は、それを証明するかのようにそぅっと唇で花の耳朶を啄んだ。
 電気が走ったかのような衝撃に、ついに耐えかねてひざからかくんっと力が抜けた。抱き締められていなかったら、きっとその場に座り込んでいただろう。
「花……」
「ごめんなさい! ちょっ……と、もぅ限界! 無理無理無理!!」
 しがみつきながら半泣きになって懇願したら、広生は微笑と苦笑の間のような表情を浮かべながら、少しだけ腕の力を緩めてくれた。手を離さなかったのはそのままこちらが頽れてしまわないようにという配慮だろう。
「ちょっと苛めすぎたか? だが、俺からは謝らないぞ。煽ったのは花だからな」
 しれっとそんなことを言われて、花は地団駄を踏みたいような心境に見舞われた。
「っ!! 広生くん、雲長さんのときより性格悪くなった気がする」
「いや、雲長の頃のままだったら、きっともっとえげつなかったと思うんだが……試してみるか?」
 悪戯っぽく目を細める広生の声に本気の色を感じた彼女は、
「つっ……謹んで遠慮します!!」とその場から飛びずさらんばかりの勢いで即答した。
 同い年になって、少しは近づけたかと思ったが、やはり彼には敵わない。
 今回は、覚えているより幼い横顔に油断させられた花の完敗といっていいだろう。
 何となく、雲長に言い負かされて悔しがっている芙蓉を思い出した。思わず遠い世界の友人に心の底から共感の念を送ってしまった。
「はぁ……雲長さんに口で勝てそうなのって師匠くらいだったもんね」
 そりゃぁ見習い軍師の自分如きが対抗できるはずがなかったと肩を落としつつ零したら、彼は明後日の方を向きながら口の端を吊り上げた。
「そりゃぁな、他のところでリードを許しているんだから、せめて口でくらいは勝たせてもらわないと割りに合わないだろう」
「嘘ばっかり。腕力だって体力だって成績だって、何でもかんでも広生くんの方が勝ってるじゃない」
「だが軍略に関してはおまえの方が上だ。本がなくてもな」
「軍略で勝てたって、恋で勝てなきゃ意味ないよ!」
 反射的に食い下がった彼女の眼前で、広生は少しだけ情けなさそうに眉を下げて、
「あぁ、その通りだ。恋に関して言うなら、俺はおまえに負けっ放しだからな。だから、他のところで勝たせてもらわないと割りに合わないと言ってるんだ」などと、とんでもない台詞を放ってきた。
 一発必中の殺し文句を突き付けられて、返す言葉も見つけられない。
 花は金魚のように口をぱくぱくさせていたが、やがて諦めたように溜息を落として、こつんっ、と彼の肩に額を乗せた。
「やっぱりずるい、広生くん。恋でも勝たせてくれない。戦略なんて考える暇も与えてくれないんだもん」
「戦略を立てているわけでもないのに、そんな可愛いことを言って俺を翻弄するような奴には言われたくないな」
「……翻弄、されてくれてるの?」
 上目遣いで見上げながら尋ねれば、
「さぁ、それはどうだろうな。かの伏龍の高弟ならこちらの真意くらい見破れるんじゃないのか?」とはぐらかされた。
 広生の眼差しは困っているようにも見えるし、面白がっているようにも見える。しかし、よくよく注意して見れば、目元はまだ微かに染まっているのがわかった。
 もしも彼がその言葉通りに自分に翻弄されてくれているのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。こちらばかりがどきどきして空回りしているんじゃないならそれで充分満足だ。
 だから花はこれ以上の追及はしないことにして、抱き返すように自分の腕を広生の背へ回した。
「とりあえず、今日のところは引き分けってことにして手打ちにしない? どきどき合戦してても埒が明かないし」
「どきどき合戦って……おまえなぁ」
「どうせどきどきするなら、一緒にどきどきしたいもの。せっかくこうしてまた会えたんだから」
 そう言って見上げたら、彼は、やっぱりおまえには敵わないな、と呟いた。
 それから、二人はどちらからともなく目を伏せて、磁石が引かれるように互いの唇を重ね合わせた。
 あの世界で最後に交わしたのと同じように。
 この世界で最初のキスを。

 どこにいても、どんなに離れていても、私だけを想い続けてくれると言ってくれた人。
 だから、今度は私が彼に誓おう。
 ずっと隣で見つめているからと。
 あなたのそばだけが、私の生きる居場所だと。
 重ね合わせた唇から、この気持ちが届きますように。

 抱き締める腕に力を込めて、花は強く強くそう願った。








初書きはなぜか雲長(長岡)×花でした。
当初考えていたのと全然違うところに着地してしまったのでちょっと纏まりなくなってしまいました(反省)
もしまた雲長×花を書くような機会があったら、次回はもう少しどうにか……。
雲長さん(広生くん)が偽物くさいとか、そういう点も含めて。ぜ、善処したいです。はい。

それにしても、雲長さんはルートを知った後で見てると台詞がどれもこれも深くてじんときます。
幸せになってくれて本当に良かった。
などと言いつつ、実は本人ルートより脇で世話を焼いてくれる雲長さんの方がときめいたりするのですが(笑)
本当に、面倒見が良くて、良い人ですよね。
少し解りづらいところもありますが、こんな人が近くにいたらいいなぁとしみじみ思う人物です。
こんなお兄さん欲しいなぁ。

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