予防線

Presented by なばり みずき


 兵舎の近くを通り掛かった孔明は、兵達に囲まれて楽しげに話をしている愛弟子の姿を認めて微かに眉を上げた。
 遣いを頼んでいたのだが、おそらくその帰りに声を掛けられるかなにかしたのだろう。
 別に急ぎの用事ではなかったが、彼女が他の男達に笑顔を振り撒いているのを見るのは何となく面白くない。
 孔明は大人げないのは百も承知で彼らの方へと歩み寄った。
「花」
 声を掛けながらさりげなく背に触れる。親密さを感じさせる距離と仕草に、花を囲んでいた兵の一人が微かに痛そうな顔をした。よく注意していなければ気づけない程度の変化だ。孔明は当然気づいたが、花はおろか一緒にいる他の兵達も気づいた様子はない。
「頼んでいた書簡はちゃんと届けてくれた? まさか行く前に道草食っていたわけじゃないよね?」
「それはもう済んでます。今ちょうど戻るところで……」
「孔明殿、たいへん失礼致しました。花殿をお見掛けしてついお声を掛けて引き留めてしまったのです。お叱りは我々が甘んじて受けますゆえ」
 割って入ったのは件の兵士だった。それもまた孔明にとっては織り込み済みである。
「いえ、そんなに恐縮して頂かなくても結構ですよ。花を叱っているわけではありませんからご心配には及びません。こちらこそ、不肖の弟子が訓練の邪魔など致しませんでしたか?」
 気遣うような素振りで問うと、
「滅相もない! そのようなことはありません」
「ちょうど訓練を終えて兵舎に戻るところでしたので」
 彼らはそう言って一様に首を振った。花の人気ぶりが窺えようというものである。
 それから最初に割って入った男が気不味そうに花を見遣り、折り目正しく頭を下げた。
「花殿、長々とお引き留めしてしまって申し訳ありませんでした。では、孔明殿、花殿、我々は失礼致します」
 立ち去る彼らの背に未練のようなものはない。
 おそらくその言葉通り、偶然見掛けた花にちょっと声を掛けて雑談していた、というただそれだけだったのだろう。
 花がその背に「訓練頑張って下さいね」などと暢気に声を掛けているのが、孔明には妙に滑稽に映った。
 さて、と向き直ると、花の物言いたげな瞳とぶつかった。
「ん? どうしたの?」
「いえ……師匠ってさりげなくスキンシップ過多だなあと思って」
「すきんしっぷ?」
「あ、えーと、触れあいってことです」
「そんなにべたべた触れてるかなあ?」
 背に回していた手をごく自然に離す。その際、疚しさのようなものは一欠片も見せないのが肝要だ。
「そういうわけでもないですけど、何となくちょこちょこ触ってきません?」
 今だって、と背中を振り返るように視線を向けて、花は苦笑混じりの笑みを浮かべた。
「いいじゃない、師弟の触れあい。心を通わせ合ってますって感じで。それとも君はボクに触られるのは嫌?」
「そんなわけないじゃないですか」
 頬を朱に染めながら言い訳がましく口の中でもごもご言う。
 じゃあ触れられたいのか、と訊いたらきっと顔どころか首まで赤くなりそうだ。
 試してみたい衝動に駆られたが、さすがに人目のあるところでそういう真似をするつもりはない。そんな可愛い顔はもったいなくて他人の目になど触れさせたくないからだ。
 実は孔明が何かと理由をつけて花に触れるのには理由がある。
 今の一件とも通じることだが、年若い兵達が花の噂話をしているところを目撃してしまったからだ。
 基本的に軍というのは男所帯である。芙蓉姫のように戦場を駆け巡る女性など他軍ではお目に掛かれるものではない。それは軍師である花にしても同じことで、ただ『女』というだけで男達の視線を集めるに充分な存在なのである。
 戦場では勇ましいが黙っていれば――あくまで口を開かなければ――たおやかな美人の芙蓉と、親しみやすくおっとりしていて、どこか危なっかしい印象を与える花はあまりにも対称的で、だからこそ軍の中では『どちらがより魅力的か』といった類の話題に上ることも少なくない。
 単なる興味本位の憧れであるなら良い。実際、軍で花に興味を持っている男の大半はこちらに類別される。だが、兵達の中には本気で熱を上げている者もいないわけではなかった。先程の兵などがいい例だ。
 孔明が以前耳にしたのもそんな兵の話だった。
 普段はどこか頼りなげな印象なのに、驚くべき智略を用いて何度となく軍の危機を救った、異国の装束に身を包む希有な少女――まるで天女を見るかのような憧れの眼差しで花を見つめ、その魅力について同僚に熱く語っていたのである。
 まるで何年も前の自分を見ているようで思わず尻がむず痒くなったが、それと同時に非常に危険だとも感じた。
 花が簡単に靡くとは思えない。もっとはっきり言うならそんな心配は露ほどもしていない。
 家族も、友人も、故郷をも捨てて、自分の側にいたいと言ってくれたのだ。その決意がどれほどのものか――わざわざ考えるまでもない。それがそんなに簡単に揺らぐだなどと疑ったりしたら罰が当たろうというものだ。
 だからといって、不安要素の芽を摘む手を緩める謂われはない。
 大切に守ってきた宝物に横から軽い気持ちで――いや、この際気持ちの軽重は関係ないが――ちょっかいを出されるのは甚だ不愉快である。
 そうして孔明が導き出した結論が、花と過剰なまでに睦まじげに振る舞うことであった。仲の良さを見せつけて出鼻を挫く作戦である。それ自体は彼女を元の世界に戻すと決めていた頃からしてきた行為だから花本人にも変に疑われることはない。その上で恋敵予備軍に因果を含めつつ見せつけてやれるのだから、孔明としては申し分ない策だと思えた。
「でも、最近ちょっと回数が増えた気がします」
 呟くように言われた言葉に、孔明は考え事の縁から意識を浮上させた。
「そうかな?」
 それはここへきて新しく配属された兵の中に、あからさまに花を狙っている輩がいるからだが、当然ながらそれを本人に伝えるつもりはない。
 悪びれずにしれっと答えた孔明に何かを思ったのか、花は上目遣いでちろりと見上げてきた。
「もしかして、私の反応を面白がってます?」
「え?」
「他の人達の前で触れられたらやっぱり緊張するし、そういうのを見て面白がってるのかなって思って」
 そう言うと、花は視線を落として唇をきゅっと噛みしめた。その判りやすく『拗ねてます』といった態度は孔明の中に眠る嗜虐心をくすぐった。こんな可愛い顔を見せられたらもっと意地悪したくなってしまう。
 とはいうものの、誰がどこで見ているか判らないような場所で仕掛けるつもりは更々ない。
 場所を移すかと孔明が口を開き掛けた次の瞬間、二撃目が飛んで来た。
「どうせ触れてくれるなら二人きりの時の方が嬉しいです」
 目元をほんのり染めて、聞き取れるか聞き取れないかぎりぎりの声音で呟かれたその言葉に、さすがの孔明も絶句した。
(ここでそう来るとは……)
 これがもし二人きりの室内で言われたものだったら、自分の理性の堤防は敢えなく崩れ去っていたことだろう。
 しかし、今だとて無傷というわけにはいかない。というか、こんなところでそんな情欲を煽るような科白を吐かれては、寧ろ生殺しのようなものだ。
「師匠?」
 無表情になってしまった孔明に、自分が何か失言をしたとでも思ったのだろう。見上げてくる瞳が不安そうに揺れている。
 彼女は絶対に解っていない。
 惚れた女からそんな瞳で見つめられて正気でいられるほど、孔明は聖人君子ではないのだ。
「君って子は本当に……」
 ため息混じりに洩らした後、孔明はその華奢な手首を掴んで歩き出した。
「師匠!?」
 驚いたように声を上げたのは最初だけで、あとは大人しくついてくる。こういう素直な点は花の美徳のひとつではあるが、警戒心のなさは自らの身を滅ぼしかねない。
 これからはそういうこともひとつひとつ教えていかなくてはならないな、と胸中で呟きつつ、手近な空室を選んで滑り込んだ。
 花を壁際に立たせ、その両側に手を着く。
「前に言ったと思うけど、君は警戒心がなさ過ぎる」
「男は狼なんですよね。師匠……孔明さんも」
 陽光が遮られた薄暗い室内で、花はまっすぐに孔明を見上げてきた。
 その眼差しの強さは予想外で反射的に固唾を飲む。
 そんなこちらの反応をどう思ったのか、不意に彼女は視線を落とした。表情を曇らせ、顔全体を俯ける。
「からかわれてるのか、そうじゃないのか、時々不安になるんです」
 気まぐれに触れて、戯れのような口づけをして――それは孔明にとってぎりぎりの防衛線だった。どこまでなら花を傷つけることなく自分の欲を満たせるのか、その見極めがつけられなくて。
 長い長い片恋と、一度は完全に諦めていた幸福が手に入ったことで、自分自身を抑制できる自信がなかったから、試すようにその距離を測ってきたのだが、それが完全に裏目に出てしまったらしい。
 思えば当たり前のことだ。
 二人きりの時には名前で呼ぶようにと言っておきながら、仕事以外で二人きりになる時間をあまり設けることもせず、戯れのように触れて、彼女の反応を確かめていたのだから。しかもその理由さえも語らずに。
「ごめん」
 自分の気持ちに手一杯で、一番大切な少女の気持ちを思い遣ることが出来ていなかった。そのことは孔明の致命的な失敗といっていい。自己嫌悪に歯噛みする。
 壁に着いていた手をそのまま花の背に回し、ゆるやかに抱き締めた。腕の中にすっぽり収まった彼女は甘えるように孔明の肩口に頭を預け、小さく首を振る。
「毎日とか、そんなわがまま言いません。だから、たまにでいいから、こんな風に抱き締めてほしいです。女の子の口からそんなこと言うのは、ここでははしたないことなのかもしれないけど、でも……」
「そんなこと思わないよ。君にそんなことを言わせてしまったのはボクだ。花が気にすることじゃない」
 囁くように告げて、白い耳朶に唇を寄せる。
「不安にさせたこともそうだけど、それに気づかなかったことも、ごめん」
「それはいいんです。私が勝手に不安になってただけですから。今は仕事も忙しいし、しょうがないって解ってますから」
「あんまり聞き分けが良すぎるのも考えものだな。こういう時くらいわがままを言ってもいいのに」
 そうやって、花が良い子でいてくれたからこそ、自分は知らず知らずの内に甘えてしまっていたのだろう。そのことを苦く思いながら嘆息する。
「今なら何でもひとつだけわがまま聞いてあげるよ」
 そんなことを言って精算しようだなんて虫が良すぎるだろうか。
 抱き締める腕を緩めて至近距離で覗き込むと、何かを迷うように視線を揺らしているのが見てとれた。
「何? 遠慮せずに言ってみな」
「じゃあ、あの……もっと強く抱き締めて下さい」
 頬を染めて、恥ずかしそうに言を継ぐ。けれど、花が本当に望んでいるのはそんなものではないと直感が告げた。
「本当に? 抱き締めるだけで良いの?」
 違うだろう、と暗に含ませて確かめるように訊ねると、花の顔がくしゃっと歪んだ。
「ああ、ごめん、意地悪してるわけじゃなくて」
 どうしても花の口から言わせたいとか、そういう意図があってのことではない。もちろんそういう嗜虐的な気分になることもこれまでなかったわけではないが、少なくとも今はそういうつもりで促したわけではないのだ。
(まあ、恥ずかしがる顔も可愛いんだけど)
 ちらりと頭を掠めた邪な感情はとりあえず一時棚上げするとして。
 孔明は言葉を選びながら、愛しい少女の頬を手で包み込んだ。
「ボクは抱き締めるだけじゃなくて、どうせなら口づけもしたいなって思うんだけど。もちろん君が嫌じゃなかったら」
「……そういう言い方はちょっとずるいです」
「そうかもね。でも、そういうずるいボクのことも好きでいてくれるんでしょ?」
 更に「ずるい」と言われるかなと思いながら答えを待たずに口づけた。
 触れた口唇は微かに熱を持っていて、その熱が孔明の胸に甘い灯を点ける。
 何度も角度を啄んで、柔らかなその感触を味わった。舌先を伸ばして輪郭をなぞると、小さな肩がびくんと震える。構わずに挿し入れて、舌を絡め、味わった。
 交わる吐息が、潤んだ眼差しが、縋るように服を掴むその手の力が、愛しさとなって全身を駆け巡る。
 口唇を離したら、花がきゅっと抱きついてきた。
「孔明さん、大好きです」
 そんな可愛い言葉を添えて。
「ボクも君のことを愛してる」
 囁きと共に、孔明はそのほっそりとした体躯を強く抱き締めた。彼女の望む通りに。

 それから数日後、孔明は再び兵達に囲まれている花の姿を見掛けた。
 邪魔をしに行くべきか、それとも見守るべきか、少しだけ逡巡する。
 と、不意にこちらに気づいた花が顔を綻ばせて手を振ってきた。
 その笑顔は当の孔明さえも照れてしまいそうになるくらい甘さが滲んでいる。
 花は彼らに向き直って会釈すると、迷うことなくぱたぱたとこちらに向かって駆けてきた。そして面食らっている孔明の腕にするりと自らの腕を絡めてくる。
 その行動は、自分が密かに抱えていた不安を払拭するに余りある威力を持っていて――心裡で白旗を掲げた。完敗だ。
 もう、予防線のために触れる必要はない。そう思ったら心がふっと軽くなった。
 もしもこれから人目のある場所で彼女に触れるとしたら、それは……。
(ボクたちの仲睦まじさを見せびらかすため、かな)
 孔明は思いついた悪戯に目を細め、周囲の目も憚らず、花のこめかみに口づけた。








師匠はストイックなところと突っ走るところの見極めが難しいです。
頭が良すぎて余計なことをいろいろ考えちゃうようなイメージ。
むしろ花ちゃんの方が(天然ではあるものの)突っ走っちゃう気がします(笑)

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