寄り添って

Presented by Suzume

 清々しい朝の清浄な空気に包まれた庭先を歩いていたら、向こうから歩いてきた玄徳がこちらに気づいて手を上げた。
「おはようございます、玄徳さん」
 にこやかに朝の挨拶をした花に、彼は、
「ああ、おはよう。今日はずいぶん早いんだな」と笑顔で頷いて、いつものように大きな掌を頭の上にぽんっと乗せた。
 子供扱いをされているようで少しばかり複雑だが、玄徳のこれはもう習性のようなものだ。いちいち目くじらを立てたところできりがない。
 それに、大好きな師の役に立ちたくて背伸びをしたい部分を除けば、やはりこうして年相応に扱ってもらえることは彼女にとってとても有り難いことだった。武将達の間では軍師として一応一人前の扱いをされている花だが、元の世界では成人もしていないただの子供だったのだ。彼のこの癖は自分をまだ子供でいいと言ってくれる免罪符のように感じられて微かに救いとなっていた。
「今日は師匠と視察に出かけることになっているので」
「なるほど。それで、はりきって早起きしたというわけか」
 ほんの僅か揶揄を含んだ声に、思わず頬が赤くなった。
 出かけるのはあくまで「仕事」だが、二人きりというのは素直に嬉しい。
 そんな浮き立った気持ちをはっきり言い当てられて、気恥ずかしさと気まずさで顔が上げられない。
「す、すみません」
「そんな顔をしなくても、別に叱っているわけじゃない。二人で出かけるのは久しぶりなんだろう? 仕事が済んだら存分に楽しんでくるといい」
「玄徳さん! もぅ、からかわないで下さい!」
 居たたまれなさを誤魔化すように抗議の声を上げた彼女に、玄徳は声を上げて笑った。
「いや、すまんすまん。孔明がおまえをからかう気持ちが少し解るなと思ってな」
 そんな気持ちは解ってもらわなくて結構です、とばかりに恨みがましく睨んでいたら、彼の後方から足音が近付いてきた。
「玄徳様、まもなく朝議が始まりますので広間へお越し下さい」
 背中からかけられた声に振り返りながら、玄徳はこちらにだけ聞こえるくらいの声で、
「噂をすれば、だな」と言った。
 からかわれた直後ということもあって、とっさにどんな顔をしたらいいのかわからなくなった花だったが、だからといって何も言わないというのも不自然だろう。気力を立て直して平静を装って、噂の本人へ向き直った。
「おはようございます、師匠」
「ああ、おはよう。玄徳様、皆さまもうお揃いですよ」
 普段だったらこちらの動揺を汲み取ってもう少し意地悪なリアクションがあるところなのに、孔明は特に何を言うでもなくさらりとそう告げて玄徳を促した。
 別にからかわれたかったわけではないが、肩透かしを食らったのは事実だ。
 拍子抜けした気分で目を瞬かせた花だったが、更に彼がこちらに視線の一つも寄越さず背を向けたことで、何だか落ち着かない気分を味わった。
 無視されたわけではない。そのはずだ。そのはずなのに、胸がちりりと痛んだ。
 朝議の席には既に武将や文官達が揃っているというのだし、急いで主たる玄徳を呼びに来たのだろう。状況から考えて、何か用があるわけでもないのに弟子にかまけている時間などない。ただそれだけのことなのだろうが――。
「花? どうした?」
 何となく置いてけぼりを食らったような気分で立ち尽くしていた花に声をかけたくれたのは、振り返ってほしい人ではなく、傍らにいた玄徳の方だった。
 彼の気遣わしげな視線を受けて、慌ててかぶりを振る。
「別にどうもしません。玄徳さんもお仕事頑張って下さいね」
 自分でもこのもやもやした気分が何なのかはっきり解っていないのだ。こんな些末なことで玄徳を足止めしてしまうわけにはいかない。
 花は殊更に明るくそう言って笑顔を作った。
「そうか、ならいいが」
 どことなく釈然としない雰囲気ではあったが、彼はそれ以上追及することなく自らも踵を返して孔明の後を追うように城内へと足を向けた。
 と、三歩もいったところでその歩みが止まった。
「花、思ったことがあるなら、はっきり口にした方が互いのためだぞ」
 玄徳は潜めた声で、しかしはっきりと花に聞こえるようにそう言った。
「えっ?」
「じゃぁ、またな」
 言葉の真意を確認する間も与えずに、彼は早足で立ち去った。
 先を行く彼女の師に何か話しかけているのが見えるが、この距離では何を話しているのかは聞こえない。玄徳と話す孔明の横顔をぼんやり眺めながら、二人の姿が見えなくなるまで花はその場に留まっていた。

 孔明の様子がはっきりおかしいと気付いたのはその日の午後になってからだった。
 朝議を終えて執務室に戻ってきた彼は予定通り午前中は城内で済ませるべき仕事に当たっていた。
 この時点ではまだ確信がなかった。ただ、いつもより少し口数が少なくて、いつもより少し態度が素っ気ないかなと感じた程度だ。
 花としては朝の一件が気にかかってはいたものの、具体的に何かがあったというわけでもなかったし、よそよそしく感じるのは疲れているからとか、何か他の理由があってのことだろうと自分を無理矢理納得させていた。
 だってこちらには孔明の機嫌を損ねるような心当たりはない。
 少なくとも昨日の夜までは普通だったのだ。それから朝までの間に何かがあったとは考えにくい。
 そう思っていたのだが、その期待にも似た予想は午後になって大きく裏切られる形になったのだった。
「え、やめるって……」
 突然師の口から飛び出した予定変更の言葉に、花は思わず持っていた書簡を取り落としそうになった。
 しかしその反面で腑にも落ちた。
 やはり今朝からの他人行儀な態度は気のせいなどではなかったのだ。
 今日の視察は急ぎのものでもなければ前々から予定されていたものでもない。昨日、孔明がふと思い立ったかのように言い出したことだ。気が変わったというのであれば、どうしても今日行わなければならないというものでもなかった。
「君も頑張っているし、城下の視察を兼ねてたまには二人で出かけようか。あぁ、調べておきたいことがあるのは本当だよ。あくまでそちらが本命だ。でも視察が終わった後、何か美味しいものを食べて帰るくらいはしても罰は当たらないだろう。頑張っている弟子へのご褒美も兼ねてね」
 そんな風に言ってくれたのは昨日の夕方のことで、あれからまだ二十四時間も経っていない。
 それなのに、孔明はそもそもそんな台詞を言ったことさえ忘れたかのように取り付く島もない態度で、
「昨日はそのつもりだったけど、思っていたより仕事の捗りが悪いからね。今日中に目を通しておかなければならない書簡もいくつかあるし、また日を改めよう」と言い捨てた。
 そう、言い捨てたといってもいいような、突き放した口振りだった。
 一体自分は何をやらかしてしまったんだろう。
 これまで花がどんなミスをしても決して手を離すことなく導いてくれた人なのに、今はまるでこちらを拒絶するかのように壁を作られている気がする。否、気がするのではなく実際に壁を作られているのだ。このにべもない態度がその証拠だ。
 理由も解らないまま急にこんな風に遠ざけられるのは納得がいかない。
 そう思って口を開こうとした彼女は、二の句を継ぐ前に更なる爆弾を落とされた。
「でも、君がどうしても外に出かけたいというなら無理には止めない。今は手伝ってもらえることはそう多くないし、玄徳様も今日の午後は休まれるということだから誘ってみたら良いんじゃない?」
 それは本当に、予想だにしていなかった分、花の心に大きな衝撃を与えた。
 頭をハンマーで殴られたような――そんな表現がぴったりだ。
 怒りと悲しさと悔しさと、その他諸々の感情が一斉に身体中に広がって、爆発した。
「師匠はそれで良いんですか?」
 怒りというのは、ある一定のラインを越えると却って冷静になるものなのだと、花はこのとき初めて知った。そのことを他人事のように受け止めている自分にも驚いたが、今はそんな心情にかまけている場合ではない。
「……」
「師匠は私が玄徳さんと出かけて、それで平気なんですか?」
 重ねて尋ねた声はとても自分のものとは思えないくらい冷たくて鋭い。
 当たり前だ。だってこっちは怒っているんだから。
 しかし孔明も一筋縄でいく相手ではない。
 呼吸三つ分くらいの間を置いてこちらに向き直った彼は、感情の読めない笑顔で頷いてみせた。
「玄徳様にも息抜きは必要だ。君ならその相手に相応しいんじゃない?」
「そんな外向きの笑顔で誤魔化さないで下さい」
 ここで引き下がるわけにはいかない。
 不意に、別れ際に玄徳が告げて寄越した言葉が脳裏に蘇った。
 思ったことがあるならはっきり口にした方が互いのためだ、と。
 もしかしたら彼はこの事態を見越していたのだろうか。まさか。
 しかし玄徳の思惑はどうあれ、その言葉は間違いなく彼女の踏ん切りの後押しになった。
 花は腹にぐっと力を込めて、愛しい恋人を睨み付けた。
「解りました、言い方を変えます。孔明さんは、それで本当に平気なんですか? 私が他の男の人と出かけても全然気にしてくれないんですか? 私が一緒に出かけたいのは誰でもない、孔明さんなのに!」
 自分の浅知恵でこの恐ろしく頭の切れる男を出し抜けるとは思えない。もし勝てる見込みがあるとしたら、それは真っ向勝負で体当たりすることくらいだ。ささやかなプライドなんてドブに捨てたっていい、こんなところで諦めるわけにはいかない。
 まっすぐ斬り込むように放った言葉はそれなりに威力を発揮してくれたようで、孔明の表情から笑顔の仮面がつるりと剥がれ落ちた。すぐに顔を片手で覆われてしまってその素の表情は見えなかったが、ポーカーフェイスを崩してやっただけでも上々だといえるだろう。
「どうして君はそう……」
 彼の唇から零れた声は苦り切ったもので、その端々に悔しさが滲んでいるように聞こえた。
「そんなの決まってるじゃないですか。私は孔明さんのことが好きだからです。人のこと「要らない」とかいって放り出そうとする人相手になりふりなんか構っていられません」
 一度手を離されたときのあの絶望感は筆舌に尽くし難い。今でも思い出すだけで身を切られるような思いがする。
 それを振り切ってこの世界に残ると決めたときは、ただそばにいられるだけでいいと思った。
 要らないと言われても、拒絶されても、ただそばにいられればいいと思った。
 けれど、手を離したことこそが孔明の愛情の形だと、今はもう知っている。
 自分からはもう手を離せないと言いながら、それを冗談として処理して良いというような、深くて不器用な愛情の示し方をしてくれる人なのだと今はもう知ってしまった。だからこそ、彼のその勘違いした優しさゆえの言葉に耳を傾けるわけにはいかないのだ。絶対に。
「大体、なんでいきなりそんな誤解してるんですか!? 師匠、頭良いくせにたまに馬鹿ですよね」
「それってずいぶん酷い言い様じゃない?」
「事実を言ったまでです。だって、こんなに好、き……なのに、疑われてるみたいなこと言われたら、私だって傷つくんですからね!」
 好きというところだけ詰まってしまったのはこの期に及んで照れが入ってしまったからだが、それでも彼女は気力を総動員して言い切った。
 噛みつかんばかりの勢いの花に対して、孔明は深く深く溜息を吐いた。
「確かに、今回のは君にそう詰られても仕方ない。完全にボクの先走りだ。それも非常に愚かなね」
 どことなく投げやりにも聞こえる口調だったが、声の端々に苦い後悔が滲んでいるように聞こえたから、それ以上の口撃はひとまず抑えた。
「言い訳して下さい。どうしてそんな勘違いされてしまったのか、教えて下さい。もしかしたら私が師匠に誤解させるような行動を取ってたのかもしれないし、もしそうなら次から気をつけられると思うし」
 そう言って見上げたら、彼は漸く顔を覆っていた手をゆっくり外した。その下から現れたのは悔恨と照れと、それから少しだけ拗ねたような表情だった。それを見て取って、花は自分がそんな些細なニュアンスを感じ取れるくらいにこの人のことばかり見ているのだと改めて実感した。
「じゃぁ聞くけど……今朝、どうしてあんな時間に玄徳様と二人きりでいたの?」
「……はい?」
 思わず聞き返してしまったのは己の耳を疑ったからだ。
 だって、まさか、たかだかそんなことくらいで誤解をされるだなんて一体誰が思うだろう。失礼ながら、これが翼徳辺りだったならまだしも、相手は賢人と名高い諸葛孔明だ。伏龍だなんて大それた異名まで持つ天下の大軍師なのだ。それがまるで子供みたいに些細なことで誤解して空回りしただなんてどうして納得できるだろう。
 しかし、思わずあんぐり口を開いてしまった彼女とは対照的に、孔明は至極真面目な様子で続けた。
「花はあまり朝が得意な方じゃないよね? それなのに朝早く玄徳様と二人きりで仲睦まじげに話をしていた。君はボクにだって滅多に見せないような顔をして笑ってた。それはどうして?」
 恐らくは自分でも下らない誤解だということは解っているのだろう。赤くなった耳や不本意そうな表情がありありとその心情を物語っている。
 それでも、敢えてその疑問を告げたのは、たぶんきっと、こちらの口から明確に否定してもらいたいということなのだ。これが花の自惚れでないとしたら。
「今日に限って早起きしてたのは、師匠と出かけるのが楽しみで早く目が覚めたからです。玄徳さんと会ったのは偶然だし、あのとき話していたのは……」
 思い出して、ほんの一拍ほど口籠もる。
 こんなことならあのとき直接からかわれていた方がきっとましだった。
 恥ずかしさというより照れ臭さのため顔が赤らむのが解っていたが、ここで言葉を濁したらまた変な誤解をされてこじれかねない。
 花は息を大きく吸い込んで、
「あのとき話していたのは師匠のことです。師匠のことっていうか、師匠とのことっていうか……そういったことを玄徳さんにからかわれてたんです。師匠が私をからかう気持ちが解るって」と説明した。
 半ばやけになっていたため余計なことまで付け加えてしまった気がしたが、そこは開き直ることにした。
 孔明はそこで初めて合点がいったというような表情を見せた。
「そうか、それであの顔だったというわけか」
「あの顔?」
「うん……。君、自覚してなかったかもしれないけど、ボクに気付いたときにすごく気不味そうな顔をしたんだよ。まずいところを見られた、とでもいうようなね。だからボクも、まさかそんなことはないだろうと思いながら、つい……嫉妬した」
「……嫉妬」
 青天の霹靂とはこのことだろうか。
 花は目を瞬かせながら彼の口から零れ落ちた言葉を反芻した。
 何だかんだで負けず嫌いな人だから、嫉妬しただなんて言葉をその口から聞ける日が来るだなんて思いもしなかった。というか、絶対にそんな嬉しい言葉を聞けることはないだろうと諦めていた。
「……なんか、ずいぶん嬉しそうじゃない?」
「すみません、嬉しいです。師匠の口からそんな言葉が聞けると思わなくて」
 素直に告げたら、孔明は大袈裟なくらい表情を渋くして顔を背けてしまった。照れているのかと指摘したら、きっと百倍くらいにして仕返しされることだろう。
 それでも緩む口元は抑えられない。
「しょうがないじゃないですか。師匠はいつも余裕綽々で、私ばっかり振り回されて、たまに独り相撲してる気分になるくらいなんですよ。滅多にない機会なんだから少しくらい喜ばせてもらったっていいでしょう」
 花は悪びれることなく満面に笑みを浮かべて宣言した。
 そんな彼女に、孔明は軽く吐息して、それから少しだけ意地悪く口の端を持ち上げた。
「誰が誰に振り回されてるって? 言っておくけど、花だって相当なものだよ。無邪気な振りをして、ボクの心を掻き乱すことに天才的なんだからね、この子は」
 言うが早いか、彼はぐぃっと花の肩を掴んで引き寄せた。声を上げる暇すら与えられずに腕の中に抱き込まれる。
 見た目よりもずっと力強い腕の力に戸惑いながら、しかしそのまま素直に身を委ねた。
 とくんとくんと響く心音は少しだけ速くて、どきどきしているのがこちらだけではないのだと思ったら、何をされても恐くないと思えた。好きな人に触れられて嬉しくないはずがない。だから大丈夫だと素直に思えた。
「余裕なんかないよ。君に関しては余裕なんかない。そう見えるとしたら、隠すのがうまいだけで、本当はいつだってこうしたいと思ってるし、君を他の誰にも触れさせたくない。たとえそれが敬愛する主君である玄徳様でもね」
 抱き締められているから表情は見えない。
 けれど熱を帯びたその声は、微かに切なさを含んだその声は、孔明の本音を余すところなく伝えてくれた。
「じゃぁ、もし師匠が嫌なら……」
「抱き合ってるときにその呼び方は勘弁してくれない? 二人きりのときには名前で呼ぶ約束だったはずだけど」
 言いかけた言葉を遮っての訂正に、花は律儀に言い直した。
「そうでした。もし孔明さんが嫌なら、今度玄徳さんに頭を撫でられそうになったら断りますね」
「……花はそれでいいの?」
「え?」
 彼は腕をゆるめて、拍子抜けしたような、しかしどこか気遣うような声でそう尋ねてきた。
 見上げた先にはその声音と同じ色合いの表情が浮かんでいる。孔明が何を聞きたいのか解らなくて、単刀直入に「何がですか」と聞き返した。
「だって、玄徳様に頭を撫でられてるときの君は、なんというか、すごく安心しきった顔してるからさ。恋人としてはちょっと複雑だけど、ボクのわがままで花の拠り所を奪うのはさすがに気が咎めるよ」
 彼の言葉は確かに的を射ていた。
 この軍に於いて、玄徳は唯一、花が子供でいられる場所だ。これは師である孔明にだって代われない。というか、花にしてみれば孔明の前が一番子供でいたくない場所なのだからそればかりはどうしようもない。
 とはいえ彼に不愉快な思いを強いてまで守りたい場所では決してなかった。
「拠り所なんて、そんな大袈裟なものじゃないです。玄徳さんに頭を撫でてもらって安心するのは確かですけど、それはどちらかといえばお兄ちゃんとかお父さんとか、そんな風に甘えさせてくれる感じがするからで。だから、師匠が嫌なら別にやめてもらっても全然平気です」
 笑顔できっぱり告げたら、孔明はなぜか少し痛そうな顔をして苦笑した。
「何ていうか、君は本当に……」
「?」
「いや、いいよ。そういうことならいい。玄徳様も頭を撫でる相手がいなくなったら寂しいだろうしね」
 よく解らないが、どうやら彼の中では何か納得するところがあったらしい。こういうときの孔明は問い質したところで決して答えを教えてくれないというのはいい加減解っているので、花もそれ以上問うことはせずに曖昧に頷いた。
「さて、それで今日のこれからの予定だけどね」
 背中に回していた腕を解いた彼は、前髪が触れるくらいの距離で花の目を覗き込み、悪戯っぽく微笑んだ。
「やっぱり視察は中止して、代わりにボクの部屋でのんびり過ごすっていうのはどうだろう?」
「師匠の部屋で……?」
「あぁ、心配しなくても、昼日中から無体な真似をしたりはしないよ? もちろん君が望むなら話は別だけど」
 これは、こちらの返答が解っていて面白がっている顔だ。
 もちろん花に異論はない。
「臨むところです」
 大好きな人と一緒に過ごせるのであれば、出かけようと出かけまいと同じことだ。大切なのは場所ではなく、誰と一緒に過ごすかなのだから。
 しかし孔明はこの返事に奇妙な表情をした。なんというか、予想外のところから飛んで来た球でも見るかのような目でこちらを凝視している。
「孔明さん?」
「あー……うん、ボクが浅はかだった。君は肝心なところで鈍いんだったよね。忘れてた」
「え? 何の話ですか?」
「いやいや、何でもないよ。まぁ今更焦るつもりはないし、言ったことを取り消すつもりはないけど……それでも、今は解らなくてもいいから、花には少しずつ警戒心ってものを教えていかないとならないかな。肩透かしばかり食らったんじゃたまらないし」
 何だかよく解らないことをぶつぶつ呟く師に、花はちょこんっ、と小首を傾げた。
「つまり、ボクもいつまでも据え膳を食わずにいるほどお行儀良くはないよってこと」
 たぶんそれは彼流の宣戦布告だったのだ――ということは口づけられてから気がついた。
 あっという間に抱き竦められたかと思ったら唇が重ねられていた。
 二度、三度と角度を変えて啄んだあと、灯された熱は呆気なく離れた。
 余韻のようなものは何もない。唐突なキスの終わりに花は思わず拍子抜けした。
「そんな物足りなそうな顔するんじゃないよ。ここで止まらなくなっちゃったら困るだろ」
 彼は笑いながらそう言って指先で花の額を弾いた。
「さて、もう一度言おうか。今日はこれからボクの部屋でゆっくり過ごそうと思うんだけど、どうする? 前言撤回するなら今回は聞いてあげるよ?」
 それが、先ほど自分が発した「臨むところだ」という言に対しての問いだということに遅ればせながら気がついた花は、思わず動揺して目を白黒させたが、すぐに気を取り直して拳をきゅっと握り締め、
「昼日中から無体な真似をしないっていう師匠の言葉を信じます」と切り返した。
「ふぅん。じゃぁ今の続きはまた今度ってことでいいかな」
「っ! 今のは……無体なことじゃなかったので、許容範囲かと……」
 せっかく切り抜けたと思ったのに次なる攻撃を食らってぐっと詰まった。口の中で言い訳のようにもごもご言うのが精一杯だ。
 本音を言うのであれば、抱かれるのが嫌というわけではない。
 少し恐いと思う部分はあるけれど、好きな人に触れられたいという気持ちはそういう方面に疎い花の中にだってちゃんとあるのだ。
 とはいえ、それをはっきり口にするのは羞恥心が邪魔をした。恋愛経験は皆無に等しいから、こういう場合の上手な立ち回りなんていうスキルもない。
「まぁ、苛めるのはこのくらいにしておいてあげるよ。今日のところはね。心配しなくても、ボクは気が長い方だからね、君の心の準備ができるまで待っててあげるよ」
 こめかみにそぅっと口づけて、孔明は可愛い恋人にそう囁いた。

 その日、二人は孔明の部屋でゆっくり過ごした。
 他愛ない話をして、時折戯れるような口づけを交わして。
 ぴったり寄り添って過ごした時間は、二人の心をも甘く満たして寄り添わせた。








最萌えながらかなり四苦八苦させられました孔明×花です。
途中、当初の予定より花ちゃんが漢前になってたり、師匠がへたれてたりしましたが
何とか書き上げることができました。良かった!
花ちゃんは無自覚で、師匠は自覚ありまくりで、お互いを振り回し合ってれば良いと思います(笑)

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