約束された明日の続き

Presented by Suzume

 新緑薫る五月。
 世に言うゴールデンウイークであっても芸能関係者には連休など関係ない。
 ドラマの撮影やバラエティ番組の収録などといった通常の仕事に加え、休日の観客を当て込んだ映画の舞台挨拶やら何某かのイベントやらと返って忙しさが増すほどだ。
 そんな過密スケジュールをこなして事務所に戻れば、見慣れた顔が龍也を出迎えた。
「ハァイ、龍也、おはやっぷ〜!」
「おぅ、お疲れさん」
 相変わらず脳天気な挨拶をしてくる悪友に、彼は片手を上げて応じた。直前まで入っていた現場が社長ことシャイニング早乙女が携わっていた番組だったために軽口を叩く気力もない。
「何よ、不景気な顔しちゃって」
「不景気で悪かったな。こちとらついさっきまでオッサンの無茶振りに付き合わされてへとへとなんだよ。ちっとは俺の苦労も察しやがれ」
 からかい口調の林檎へ渋面で悪態を吐けば、彼は得心したように苦笑した。
「それはお疲れさま。でも半分は自業自得なんじゃない? シャイニーも龍也が何でも応えちゃうからどんどんハードル上げちゃうのよ。たまには降参して白旗掲げればいいのに」
「そんなのが通用するオッサンかよ。すぐに見破って余計にハードル上げてくるに決まってんだろ」
「まぁ確かにその可能性もあるかもね」
 結局軽口に持ち込まれたが、これもまたいつものことだ。
 嘆息しながらソファに座り込んだ龍也に、女装の悪友は益々苦笑を深くして身を翻した。
 事務所を出るところか何かで鉢合わせただけかと何気なく見送ったが、意外にも程なくしてヒールの足音が戻ってきた。
「はい、お疲れの同僚に労いの一本よ。ありがたーく飲みなさい」
 そう言って林檎が差し出してきたのは休憩スペースにある自販機の缶コーヒーだった。いつも好んで飲んでいる銘柄のもので、その心配りには言葉以上の労いの気持ちが感じられるというものだ。
「それじゃ有難くゴチになるか。サンキュ」
 冷たい缶を受け取って額に当てれば、疲労で火照った熱が冷まされて心地良い。
 束の間そのまま目を閉じて涼を取ってからプルタブを開けて一気に飲み干した。ちょうど喉が渇いていたこともあって、スモール缶はあっという間に空になった。
「いい飲みっぷりだこと」
「喉渇いてたんだよ。茶を飲む暇もなかったからな」
「そんなんじゃ熱中症でダウンしちゃうわよ。健康管理も仕事の内って、いつも口煩いのは龍也の方なのに」
 笑いながら混ぜっ返されてばつの悪い思いを味わったが、生憎反論の余地もないので押し黙ってやり過ごすことにした。
 こういうときは話題を変えるに限るというものだ。
 彼は誤魔化すように一つ咳払いをして、
「それで? 俺に何か用か?」と水を向けた。
 多忙なのは何も龍也ばかりではない。過密スケジュールは林檎も同じはずで、わざわざ自分をからかうためだけにここにいるとは思えない。何か用件があってそれを切り出すタイミングを計っているといったところだろう。
 こちらの問いに、林檎は視線を逸らして肩を竦めた。
「それとなーく切り出すつもりだったのに、察しが良くて嫌になっちゃう」
「そりゃ伊達や酔狂で長年友達やってねーからな」
 形ばかりやり込めたことで溜飲を下げた龍也はもう一度「で?」と促した。
「別に改まった用事ってわけじゃないんだけど……」
 こんな風に言い淀むのは比較的ずけずけ物を言うこの悪友にしては珍しいことだ。
 余程話しにくい内容なのかと思わず身構えて聞く体勢を整えたのだが、ルージュに彩られた唇から飛び出したのは予想の斜め上の言葉だった。
「龍也、来週誕生日でしょ。何か欲しいものないかなーって」
「は?」
 完全に虚を突かれた龍也の口から間抜けな声が零れ出たのは不可抗力というものだろう。
 一方の林檎も、普段ならばここぞとばかりに混ぜっ返してくる場面だというのに、今日に限ってそんな威勢は微塵もない。というか、目を逸らしているのでこちらが阿呆のようにあんぐり口を開けていることにも気付いていない様子だ。
「……一体どういう風邪の吹き回しだ、そりゃ?」
 これまでにも誕生日を祝って貰ったことがないわけではないが、サプライズ大好きなこの悪友がこんな風に単刀直入に欲しいものを尋ねてきたことなどこれまで殆ど覚えがない。
 警戒も露わにそう問えば、彼は長い髪を指に巻き付けながら不貞腐れたように唇を尖らせた。
「だからぁ……こないだのこともあるし、ちょっとは挽回しておこうかなぁって……」
 言い訳がましく口にした「こないだ」というのがいつのことか思い当たり、龍也は反射的に吹き出してしまった。
 林檎が言っているのはシャイニング歌謡祭に関わる一件のことに違いない。
 あれはぐだぐだ煮え切らずにいた自分にも非があることだし、龍也にしてみればもう終わったこととして処理していた案件だ。唯一腹が煮えていた春歌を巻き込む形になったことについても、ちゃんと彼女へ謝罪をしたことで水に流した。元々怒りを引き摺るタイプではないし、それは互いに折り込み済みだ。
 だから龍也は遠慮なく笑い飛ばして、
「ありゃもう終わった話だろうが。なに殊勝なこと言ってんだよ」と言ってやった。
 そんなこちらの態度をどう思ったのか、林檎は益々不貞たように顔を顰めて唇を噛み締めた。
「あんたは良くてもこっちの気が収まらないのよ。ハルちゃんのこともあるし」
 吐き捨てるように告げられたのは掛け値なしの本音なのだろう。
 普段は茶化して滅多に見せないが、こいつはこれで律儀なところがある男なのだ。言葉で詫びただけで収まりがつかないというのも解らないではない。
 一応形だけでも何か受け取れば気も済むだろう。
 一瞬でそう結論づけた彼は、
「そうだな……それなら当日は俺でも食えそうなケーキでも用意してくれよ。お前、そういうの詳しいだろ。そうしたら春歌と一緒に食うからよ」と折衷案を口にした。
 その場凌ぎの思い付きのつもりだったが、口にしたらそれは名案なように思われた。
 誕生日当日は奇跡的に昼からオフが取れたので可愛い恋人と二人で過ごす約束が取り付けてあった。料理は彼女が用意してくれるつもりのようだったが、ケーキはどうするかという問いは保留にしていた。甘いものが食べられないということはないが、そんなに量は入らない。ホールで買っても二人で食べ切れるとは到底思えないし、余らせるのは確実で、それならば適当にピース単位で買ってくればいいだろうくらいに思っていた。
 その点、林檎ならば龍也でも食べられそうな甘さ控え目の、それでいて美味しいケーキを知っていそうだし打って付けといっていい。おまけにこちらのリクエストに応えるということで彼の気も済んで一石二鳥というものだろう。
 得意満面で林檎に視線を向けたが、しかし対する女装の同僚はなぜか何とも言えない微妙な表情を浮かべていた。例えるならば呆れと苛立ちが入り混じったような顔だ。
「林檎? どうかしたか?」
 訝しく声をかけた龍也に、彼は軽く溜息を吐いて首を振った。
「ううん、何でもない。OK、ケーキの件は引き受けたわ。当日ハルちゃんに渡しておくから。それじゃアタシはこれからドラマの撮影があるから」
 林檎は畳み掛けるようにそう告げ、一方的に会話を切り上げて、ヒールの音も高らかに龍也のオフィスから引き上げていった。
「何だありゃ」
 首を傾げて呟いてみたものの、何が林檎の機嫌を損ねたのか全く見当がつかない。
 とはいえ元々気紛れなきらいのある男だし、こういう態度は特に珍しいものでもない。あまり深く考える必要もないだろう。
 龍也は一つ嘆息して気を取り直し、大きく一つ伸びをして、今日中に片付けるべき事務仕事へと向き合ったのだった。


 そして迎えた誕生日当日。
 学園での仕事が少し押してしまったため、龍也がオフィス兼自室に戻ったのは昼もすっかり過ぎた午後のことだった。
 事務所のスタッフには今日は仕事は取り次がないよう言ってあるが、この部屋では悪気なく邪魔が入るのは想像に難くない。例えば生意気だが可愛い後輩達が自分の誕生日を祝ってくれようと訪ねてくるなどといったケースだ。実際にそれらしい探りも何人かから受けていた(無論、既にプライベートで予定が入っていると言って回避する根回しは怠らなかったが)。
 そういった状況が読めていたこともあって、今日はこの後は春歌の部屋へ行く段取りになっていた。
 ホテルなどでは万が一スクープでもされたら厄介だし、その点事務所の寮である彼女の部屋ならばそういった危険は格段に低い。今となっては寮を出た身ではあるが、管理や雑務と言った分野は未だに龍也の携わる仕事の一つだし、恋人との逢瀬以外にも寮を訪れる機会は少なくないのだ。誰かに見咎められたとしても邪推される心配は皆無と言っていいだろう。
 そんなわけで、仕事関連の書類をオフィスの机に纏めて置いて、手早く私服に着替えた彼は、すぐさま愛しい少女へこれからそちらへ向かう旨をメールした。
 こんな風に浮き立った気分で誕生日を過ごすなどいつ以来だろうか。
 いい年した男がみっともないとか何とかいった思いもちらりと頭を掠めたが、こういうイベント事は変に難しく考えるより楽しんだ者勝ちだ。
 春歌に対して格好付けるのも大人ぶるのもやめて肩の力が抜けたというのもあるのかもしれない。
 そういった意味で、歌謡祭に関するあれこれは自分にとってプラスに働いたのだと、少し時間の経った今ならば素直に受け止められる。それは彼女との関係を決定的に進めたことにも由来するのかもしれないが、それすらもあの一件があってこそのことだ。
 自分の誕生日を祝うために待ちかねていてくれるであろう可愛い恋人の顔を思い浮かべた彼は、急く気持ちを宥めながら愛車に乗り込んでエンジンを掛けた。

 
 寮の駐車場へ車を停めて、エレベーターを待つのももどかしく、小走りに近い大股で彼女の部屋へ向かった。
 平日の昼間というのもあって廊下を行き交う者は皆無だ。
 誰とも会わなかったことに微かに安堵しながら部屋の呼び鈴を鳴らせば、程なく部屋の中から足音が聞こえてきた。
「はい」
「春歌、俺だ」
 おずおずとした声にそう応じて待つこと暫し。
 普段ならばすぐにも開かれる扉が、しかし今日に限ってはなかなか開く気配がない。
「春歌? どうした?」
 思わず怪訝に問いかければ、ドア一枚隔てた向こう側から戸惑いとも躊躇いともつかない気配が伝わってきた。
「春歌?」
 もう一度、今度は僅かに声を潜めて宥めるように呼んでみた。
 焦れったくはあるが、こういう場合大きな声で下手に刺激するのは逆効果にしかならないものだし、騒ぎになって他の者に見咎められたりしたら面倒だ。
「何かアクシデントがあったっていうなら聞くし、とりあえずここを開けて中に入れてくれねーか? それとも入れられない事情でもできたか?」
「い、いえ! そういうわけじゃなくて……その……」
 言い淀む春歌の声音からは切迫した何かは感じられない。
 しかし、何事もないのであれば彼女がこんな態度を取るわけがないのだ。
 どうやって聞き出したものか思案するものの、それもこれもまずドアを開けて貰わなければ話にならない。
 それとも、急な来客でもあったのだろうか。
 寮内に立ち入れるのは基本的には関係者に限られるが、事務所内の人間であっても自分達の関係は伏せているから春歌が中に入れるのを躊躇う理由としてはありそうなセンだ。そういう理由だとしたら、彼女が龍也を室内に入れるのを躊躇うのも解らない話ではない。もっとも相手が事務所の人間なら、こちらはいくらでも説得力のある言い訳を並べることができるので、いっそ入れて貰った方が話は早く済むのだが、素直で嘘の吐けない春歌に打ち合わせもなくそこまで思い至れというのは無理な相談というものだろう。
「出直した方が良さそうならそうするが……」
 一緒に過ごす時間が減るのは残念だが、ここで無理を通すのは大人げないというものだし、何より彼女の気持ちを尊重してやりたい。
 そう思ってそんな言葉を口にしたら、俄にドアが開け放たれた。
 あまりの勢いに思わずドアに激突しそうになりながら紙一重でそれを避ける。
「お、おい、危ねーだ、ろ……」
 反射で文句を言おうとした龍也だったが、その威勢は呆気なく潰えた。
「お前……その格好……」
 代わりに出てきたのはそんな言葉で、それを紡いだ声も掠れてしまう有様だ。
 それというのも――
「あの、とりあえず上がって下さい……」
 顔どころか首筋まで真っ赤に染めた春歌に促され、彼は呆然としたまま黙ってその言葉に従った。
 こんなところを誰かに見られたりしたら騒ぎになりかねない。
 というのも、彼女が身に纏っていたのは純白のドレス――それもどこからどう見てもウエディングドレスにしか見えないものだったのだから。

 部屋に招き入れられた龍也は、リビングを見て再び絶句した。
 テーブルに所狭しと並べられているのはまるで立食形式のパーティーかと問いたくなるようなオードブルの数々と、小振りではあるがウエディングケーキにしか見えないようなものだ。おまけに室内のあちこちには花なども飾り付けられていて、ごく内々の結婚披露パーティーですといっても通用しそうな雰囲気だった。
「何だこりゃ……」
 思わず呟いて視線を巡らせれば、ソファの上に見覚えのある箱があるのに気が付いた。龍也がいつもスーツを作っている店のものだ。微かな確信と共に箱を開ければ、果たしてそこには真新しい礼服が一式収められていた。わざわざ出して当ててみるまでもなく自分のサイズで誂えられたものだというのが察せられた。
 これでは春歌がドアを開けるのを躊躇うのも道理だ。
 自分はまるで花嫁のように飾り立てられ、室内もこんな有様、おまけに首謀者がこの場にいないとなれば途方に暮れるのも無理はない。
「あ、あの、午前中に月宮先生がいらっしゃって、あれよあれよという間にセッティングをされて……」
 困りきった顔で弁解するように言う可愛い恋人の肩を宥めるように軽く叩いてやりながら、龍也はこめかみを引き攣らせたまま電話をかけた。
 相手は勿論悪ふざけが過ぎる悪友だ。
 タダイマ呼ビ出シテイマス……という合成音声を聞きながら待つこと暫し。
「ハァイ、龍也、ハッピバースデー!」
「ハッピーバースデーじゃねー! 何なんだこれは!?」
 底抜けに明るい祝いの言葉を蹴飛ばす勢いで怒鳴り付ければ、電話の向こうからは楽しげな笑い声が響いてきた。
 これは全く反省していない。それどころか「してやったり」といった雰囲気が伝わってきて、こちらの苛立ちも一気に加速した。
「何って、アタシからのバースデープレゼントよ。ご要望通り甘さ控え目のケーキを用意したんだけどお気に召さなかったかしら?」
「お気に召すとか召さねーとかいう問題じゃねーだろうが! この有様は一体何の真似だって聞いてんだ! 空っ惚けるのも大概にしやがれ!!」
「いやぁねぇ、そんなに怒鳴らなくてもちゃんと聞こえてるわよ。ケーキだけじゃアタシの気が済まなかったから、オプションを付けたってだけの話じゃない」
「オプションって、お前なぁ……冗談にしても限度があんだろ! こんな茶番に春歌まで巻き込みやがって!」
 怒鳴りながらちらりと傍らの恋人を見遣れば、彼女は小さな声で、
「わたしなら大丈夫ですから」と健気に執り成してきた。
 ウエディングドレス姿の春歌の頭にはご丁寧にヴェールまで載っていて、いつものように頭を撫でて安心させてやることもできない。せめて剥き出しの肩を抱き寄せて軽く叩いてやりながら、彼は再び目を怒らせて電話の相手に意識を向けた。
 こちらの本気が伝わったのか、林檎は一つ息を吐いて「だから」と言った。その声音は先程までのふざけた調子ではなく、真面目な話をするときのトーンだ。龍也も居住まいを正して聞く姿勢になった。
「たかがケーキくらいじゃアタシの気が済まなかったのよ。あんたにしたことについては、間違ってたとは思ってないわ。けど、やり方がちょっと強引で行き過ぎだったとは思ってる。結果的にハルちゃんを巻き込んで振り回しちゃったこともね。で、その反省とお詫びを兼ねて、龍也の誕生日は思い切り盛大に祝ってあげたかったの!」
 最後の方は殆ど自棄っぱちな言い草で、本当はわざわざそんなことまで明かすつもりではなかったのだというのが窺えた。こういう素直じゃないところはいかにも林檎らしい。
 そして、事情が飲み込めればこちらの怒りもすぅっと冷めた。
 今回の件が度を超えた悪ふざけではなく、彼なりの祝福の形だというのが解ったからだ。
「あー……お前の気持ちは解った。祝ってくれようってその気持ちもありがてぇ。だがな、ものには限度ってもんがあんだろ。何もこんな……」
「いいじゃない、遅かれ早かれそうなる予定なんでしょ。予行演習だと思って人の厚意は素直に受け取っておきなさいよ」
 諭すような龍也の言を遮って、林檎がぴしゃりと言い放った。
 確かに春歌と関係を持ったときからその未来ははっきり思い描いていた。軽い気持ちで手を出したわけでは断じてない。
 しかし、その未来はあくまで何年も先の話であって、こんな性急に話を運びたいわけではない。
 第一彼女はまだ成人すらしていないのだ。結婚など遠い未来の話としてしか捉えていないだろうに、いきなりこんな風に眼前に突き付けられては臆してしまうかもしれない。
「だからってお前……」
「そ・れ・に、ウエディングドレスは女の子の夢なのよ! でも実際の結婚式ってなったら、龍也の実家は神社だから当然花嫁衣装は白無垢でしょ」
「馬鹿、いくら何でも先走りすぎだ! ていうか、式はともかく披露宴で着るって手段もあるんだから余計な世話だ!」
 売り言葉に買い言葉で言い返したら、傍らの春歌が驚いたようにこちらを見上げてきた。
 しまった、乗せられた――と思ったが、一度飛び出した言葉は再び口の中へ戻るものでもない。
 ここは開き直るより他ない。
 龍也は誤魔化すように咳払いをして、
「ともかく、だ。質の悪い悪ふざけじゃねーってのは解ったが、金輪際こんな茶番に付き合うのは御免だからな」と一方的に会話を終わらせて電話を切った。
 この部屋を訪れてからまだ大した時間も経っていないというのに随分と疲れた。
 深い溜息を吐きながら眉間の皺を揉みほぐしていたら、いつの間に持ってきたのか、春歌がグラスを差し出してきた。氷の浮かぶ涼やかな透明の液体を飲み干せば、仄かにレモンの香りがした。ミネラルウォーターにレモンスライスを浮かべたもので、春歌の部屋にいつも常備されているものだ。
 喉が潤ったことと爽やかな風味で昂ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。
「ありがとな」
 笑顔で告げたら、彼女ははにかんだように微笑んで頷いたが、しかし次の瞬間にはすぐに表情を曇らせてしまった。
「あの……折角の誕生日なのに、こんなことになってしまってすみません」
「は? 何言ってんだよ。お前は何も悪くねーだろ。事態を引っ掻き回したのは林檎の奴なんだし、春歌が謝るようなことなんて何もねーじゃねーか」
「でも、月宮先生を止めることもできず、状況に流されるばかりで……」
「いや、そもそも暴走したあいつを止められるのなんてうちの社長くらいのもんだ。お前が気に病むようなことじゃねーって。それを言ったらケーキの件を頼んだときに俺が気付くべきだったんだ。今から思い返してみれば、いかにも何か企んでそうだったんだからな。気付いて止められなかった俺の落ち度だ、お前が気にするようなことなんて何もねーよ」
 苦笑しながら言ってやったが、春歌はまだ納得しきれていないらしく、消沈した様子で俯くばかりだ。
 折角着飾っているというのに、それも――本人の意志はともかく――自分のために着飾ってくれているというのに、いつまでもそんな表情をさせているなど男として失格だ。
 林檎のことだから恐らくプロのスタイリストを用意したのだろう。メイクもヘアセットも完璧で、どこの花嫁と比べても引けを取るものではない。春歌の場合は素材も良いので尚更だ。
 ドレスは流行に左右されないビスチェタイプのもので、胸元には繊細な刺繍があしらわれ、また腰から下はチュールやオーガンジーといった柔らかな素材が幾重にも重ねられてふんわりと甘やかな雰囲気を醸していて、実に上品且つ可憐なデザインのものだった。
 他の男の見立てというのが非常に不本意ではあるが、彼女の魅力を最大限に活かすデザインのドレスで、龍也の好みにも見事にマッチしていた。
 龍也はそこまでまじまじと観察してから、
「春歌」と声にしっとりとした色気を含ませて愛しい少女の名を呼んだ。
 それだけに留まらず、柔らかな頬に手を添えてその顔をこちらへ向けさせる。
「いきさつはどうあれ、せっかく綺麗に着飾ってるんだ。どうせならとびっきりの笑顔で俺の誕生日を祝ってくれねーか」
「龍也さん……でも、お気を悪くされていたんじゃ……」
「あぁ、林檎の企みに踊らされるのは本意じゃねーけどな。けど、一応これはあいつなりの心尽くしのつもりみてーだし、そういうことなら有難く頂戴して楽しんだ方がいいだろ。まぁ数年先のちょっとした予行演習ってやつだ」
 茶目っ気たっぷりにウインクなどして冗談めかして言ったら、途端に春歌の頬が朱に染まった。
「予行演習って……」
「さすがにウエディングドレスの意味が解らねーほど鈍くはねーだろ? それとも、俺との未来は考えられねーか?」
 冗談と本気を絶妙に織り交ぜて問うたのは、龍也自身も彼女の返答が見極められなかったからに他ならない。これならば、もしも「今はまだそんなことは考えられない」と断じられても冗談として流せるという打算もあった。
 と、こちらを見上げていた春歌の眸が瞬く間に潤んだ。
「本当に……わたしを貰って下さるんですか……?」
 震える声で紡がれた台詞は龍也の胸を鷲掴みにするほどの衝撃だった。
 堪らずその華奢な体躯を抱き締めて、
「当たり前だろ」と吐き出した。
「夢みたいです」
 胸元からうっとりした声が響いてきて、またぞろ胸が締め付けられた。
 自分が彼女の道を閉ざしてしまったのではないかと思い悩んで、一度は離れることも考えた。
 あのときの自分の胸ぐらを掴んで問い質したい。
 どうして離れられると思ったのか。
 こんなにも愛しくて、掛け替えのない存在を、どうして手放せるなどと思ったのか。
 春歌のためだなんて、そんなのは詭弁だったと今ならば解る。
 もしもあのとき離れていたらきっと一生後悔しただろう。春輝を喪ったときと同じくらい。いや、もしかしたらそれ以上に。
「春歌だから欲しいんだ。お前以外はもう目に入らねー。俺が全身全霊かけて愛するのは、春歌、お前だけだ。だから、いつか……お前の全部を俺にくれねーか」
 絞り出すように掻き口説けば、彼女はこちらを抱き返してしっかり頷いてくれた。
「勿論です。いつかなんかじゃなくて、わたしの全てはもう龍也さんのものです。身も心も、未来も、全部全部、龍也さんのものです」
 その言葉こそが龍也にとっては至上の贈り物だった。
 それは、ステージの上でライトを浴びて観客と一つになるあの最高のエクスタシーに勝るとも劣らない幸福感を彼に味わわせるものだった。


 それから程なくして、春歌はドレスを脱いで見慣れた普段の服に着替えてしまった。
 折角だからもう少し堪能したかったが、汚してしまいそうで恐いとがちがちになっているのは忍びなかったし、もう二度と見られないというものでもない。
 ただ、彼女が着替えてしまう前に、龍也の方も礼服に袖を通した。
 タキシードではなくフロックコートを選ぶ辺りはよく解っているというべきだろうか。
 光沢ある黒の上質な生地で仕立てられたフロックコートにシルバーのベスト、シャツは勿論立ち襟のもので、アスコットタイは質の良いシルクだ。
 まさか撮影以外でこんな服を着ることになるとは思っていなかったが、着こなしについては充分満足のいくものだった。
 どうせなら写真にでも残しておきたかったところだが――本気でそうするつもりであれば林檎に声をかければ喜んで飛んでくるに違いなかったが――それは本番の楽しみに取っておくことにした。
「たとえ仮初めのことでも、こうして龍也さんの隣で新婦さんの真似事ができて嬉しかったです」
 礼服を着込んだ龍也をうっとり見上げながらそんな可愛らしい台詞を吐かれて、思わずこのまま婚姻届を出しに行きたくなってしまったというのは彼の心の内だけの秘密である。
 その後は、二人は当初の予定通り久しぶりの逢瀬を存分に楽しんだ。
 会話の合間にそれぞれの幸せな未来を思い描きながら。
 それはきっと、遠い未来のことではなく、近い将来必ず叶う約束された明日の続きだ。








※Pixivにアップしたものを転載(初出 2014/05/16)
龍也先生のお誕生日に合わせてぴくしぶへアップしたものです。
若干タイムオーバーでしたが今年はちゃんと誕生日ネタでお祝いできました。
春歌たんと末永くお幸せになのです!!

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