Bird Kiss

Presented by Suzume

 その日、社外のコンペティション用の曲製作に取りかかっていた春歌の元を意外な人物が訪れた。シャイニング事務所きっての売れっ子アイドル月宮林檎だ。
 正確に言えば取り立てて珍しいということもない。
 ここは早乙女学園内のレコーディングルームで、林檎はこの学園の教師でもある。おまけに自分の上司にして恋人未満という微妙な間柄である日向龍也とは同期で同僚、そして彼のことを最もよく知る親友でもあった。
 龍也から何か言われているのか、それとも別の理由があるのか、この女装アイドル教師は日頃から春歌のことを気にかけてくれていた。今日も仕事の息抜きを兼ねて彼女の様子を見に来てくれたらしい。
 編曲で迷っていた箇所の相談に乗って貰った後、他愛ない雑談をしていたら、林檎がふと何かを思い出したように「そういえば」と切り出した。
「ねぇハルちゃん、知ってる? 明日はキスの日なのよ」
「キスの日、ですか?」
「そう。昭和21年のこの日、日本で初めてキスシーンが上映されたんですって。それに由来してキスの日って呼ばれてるのよ」
 人差し指を立てて解説する彼は教師然としていて、まるで在学中の授業のときのようだ。春歌は知らず姿勢を正し、真剣な面持ちで俄に始まった講義へ耳を傾けた。
「この日に取材なんかがあったらほぼ間違いなく「今日はキスの日ですが」って話題を振られるわね。キスの思い出話を聞いてくるくらいならまだましな方だけど、「一番最近したキスは?」なんて無粋なことを聞いてくる記者もいるのよ。ハルちゃんも作曲家として売れっ子になってきたらそういう質問を受ける日がくるかもね」
 そうしたらどうする、と悪戯っぽく瞳を閃かせて、至近距離から覗き込まれた。
 もうだいぶ見慣れたとはいえ、林檎は女と見紛う美貌の持ち主だ。いや、そんじょそこらの女性などより余程美人と言えるだろう。アイドルコースの元クラスメイト達の中にだって、彼と張り合って勝てるような相手などいなかった。
 そんな林檎に息も触れんばかりに顔を近付けられ、心の奥底まで見透かすような眼差しに見詰められて、どうして平然となどしていられるだろう。
 彼女にできたのは、顔に血が上っていくのを感じながら、顔を俯けたまま反射的に半歩ほど後退ることだけだった。
「やだ、顔真っ赤にしちゃって、かーわいい! アタシとこの程度接近したくらいで狼狽えてるようじゃ、龍也とはまだまだ清らかな関係なのかしら」
 冗談めかした口調に紛れたとんでもない発言に、春歌はぎくりと身を強張らせた。
 赤かった顔から一転みるみる血の気が引いていき、指先が微かに震え出す。
「あ、あの……せっ先生とはただの上司と部下でっ……!」
 声を裏返らせながら言い訳しようとしたが、それを遮るように長い指が春歌の唇に触れた。
「あなた達のことは龍也から聞いてるから、そんな必死に言い訳しなくても大丈夫よ」
 安心させるような口調と優しい眼差しに、思わず肩から力が抜けた。
「すみません。こんなことで狼狽えてたら先生にもご迷惑かけちゃいますよね。もう少しさらっと受け流せるようにしないとって解ってはいるのですが……」
 思えば一ノ瀬や神宮寺、翔といった面々も、薄々春歌と龍也の関係の変化に気付いているような節が見受けられた。それは迂闊な自分の態度が招いたことかもしれないと思うにつけ、居たたまれない気分は増すばかりだ。
 自分だけが何か言われるのであればいい。だが、実際に中途半端な立場の春歌との関係が取り沙汰された場合、打撃を被るのは間違いなく彼の方だ。こちらは未成年で、ついこの間までは教師と生徒という間柄だった。そして卒業オーディションで結果を残せなかった自分をアシスタントとして雇い、準所属まで引っ張り上げてくれた。もちろんそうなり得たのは春歌自身の頑張りがあってのことだが、悪意を持った人間にかかれば格好の攻撃材料になりかねない。
 しゅんと項垂れた彼女に、林檎は思案気な視線を向け、それからぽんぽんっ、と頭を撫でた。いつも龍也がしてくれているのと同じように。
「まぁそういう素直な反応がハルちゃんらしいといえばらしいんだけど、確かに気を付けた方が良いわね」
「すみません」
「謝るようなことないわよ。これから少しずつ慣れていきましょ。アタシがからかったくらいじゃ動じないくらいに、ね」
 悪戯っぽく放たれたウインクはコケティッシュで、彼の性別が解っていてもどきっとする男性は少なくないに違いない。
 ここまでとはいかないまでも、せめて自分にももう少し女性らしい魅力があれば……と思ってしまうのは、告白した折りに子供扱いであしらわれてしまったことが春歌の心に影を落としていたからだ。
 そして林檎は彼女の表情に微かに沈んだ色が過ぎったのを見逃したりはしなかった。
 身を屈めて目線を同じくした彼は、極上の笑顔を浮かべてマシュマロのように柔らかい頬を両手で包み、
「要は、慣れよ」と宣言した。
「慣れ?」
「そう、慣れ。関係が一歩進んじゃえば肝も据わるわ。肝が据われば、ちょっとやそっとのことで動じたりしなくなる。アイドルコースの子達の中にも、最初から舞台度胸を持ち合わせてる子もいれば、何度も練習して慣れていって勝ち得る子もいる。それと同じよ」
 自信に満ち溢れたその言葉と勢いに飲まれ、春歌はただ頷くことしかできない。それを見てとり、林檎の笑みは益々深くなった。
「つ・ま・り、ハルちゃんが龍也との関係を一歩前進させれば、それが自信に繋がって、ちょっとからかわれたくらいじゃ動じなくなるってこと」
 この場に龍也がいたら、間違いなく「ふざけんな!」と一喝してこの悪友の悪ふざけを阻止したことだろう。
 しかし生憎この場に彼の人はおらず、フォローしてくれる別の人物の姿もなかった。
「明日はせっかくキスの日なんだし、それを大義名分にして、たまにはハルちゃんから積極的に迫ってみなさいな。龍也だって悪い気はしないはずよ」
 男性と女性の中間、どちらにも蠱惑的に見えると評判の笑みでしっとり囁かれては、素直で疑うことを知らない無垢な少女などひとたまりもない。
 白い喉をこくりと鳴らし、春歌は思いつめた顔で小さく頷いたのだった。


 そして翌日。
「なんだ、今日は心ここに在らずって感じだな」
 仕事の合間、何度となくちらちらと視線を向けてしまっていたことは気付かれていたらしい。
 真っ向から指摘され、春歌は狼狽えて視線を泳がせた。
 そして、こんなやりとりは少し前にもあったな、と思い出した。
 あれはまだ自分でもはっきり気付いていなかった龍也への恋心を、神宮寺に指摘された直後のことだ。仕事場に戻ってきたはいいものの、彼の顔をまともに見ることもできないくらい意識しまくった挙げ句、仕事に集中できないのなら帰れと強く叱責された。
 今の状況はあのときとよく似ていた。二度も同じことを繰り返して、きっと龍也も呆れているに違いない。
 好きな人から、そして尊敬している相手から失望されたかもしれないというのは、春歌の心を酷く萎縮させた。しかしそれは自らの行いが招いたことで、きりきりと胸が痛んでも堪えるより他ない。
 林檎の言葉に煽られたとはいえ、仕事中までこんな浮わついた気持ちでいたから罰が当たってしまったのだ。
 鼻の奥がつんと痛んで目の奥がじんわりと熱くなったが、この場面で泣くような真似は絶対にしたくない。そんなことをしたら益々失望されてしまいそうだし、泣けば許されると思っているだなんて誤解をされるわけにもいかない。
 彼女は感情の昂ぶりをやり過ごすため顔を俯けて奥歯を噛み締めた後、
「仕事中に気を散らしてすみませんでした」と、声が震えないように意識してそれだけ言って、呼吸を整えてパソコンのモニターに向き直った。
 と、デスクに大きな手が乗って、不意打ちで真横から顔を覗き込まれた。
「先せ……」
「何があった?」
 龍也の低い声音が耳を打ち、反射のように椅子から腰が浮いた。後ろめたさがそんな行動を取らせた。
 しかし、逃がさないというように二の腕を掴まれ、あっという間に彼の方を向かされた。
 恐いくらい真剣な眼差しで見詰められ、やにわに心臓が暴れ出す。春歌はこのまま呼吸が止まって死んでしまうのではないかという錯覚に捕らわれた。
「春歌」
 名字ではなく名前の方で呼ばれ、またぞろ胸がきゅぅっ、と痛んだ。
 半分パニックに陥りかけた彼女の脳裏へ、俄に昨日の会話が蘇った。
 積極的に迫ることなど自分には無理だと告げたのに対し、林檎がアドバイスをしてくれたのだ。ご都合主義ともいえるシナリオに、そんなにうまく事が運ぶとは思えないと思った春歌だったが、混乱した今の彼女にそんな判断力は残ってはいなかった。
 この状況を打破できるのなら……と藁にも縋る思いで、女装の教師から吹き込まれたその言葉を口にした。
「キスさせて下さい!」
 緊張のあまり声を裏返らせてそう言い放った春歌の眼前で、彼は見事にフリーズした。それはまさに林檎が言った通りの展開で、もしかしたらこの先もうまく進められるのだろうかという弾みになった。
 彼女は昨日教わった通り、空いている方の手を龍也の後頭部へ回して引き寄せ、呆気に取られている彼の唇に自分のそれをそぅっと重ねた。
 最初は触れるだけの口づけを、角度を変えながら数回繰り返し、次に舌を伸ばしてあわいを割り差し入れる。息継ぎは角度を変えるときにゆっくりと、それが叶わないようなら鼻ですれば良い。伸ばした舌で歯列をなぞって、それから――。
 林檎から告げられた手順を頭の中で反芻しながら、それを忠実になぞっていた春歌は、しかし突然強い力で腰を抱き寄せられ、我に返って瞠目した。
 伸ばした舌はあっという間に搦め捕られ、強く強く吸い上げられた。ぴったりと重なった唇にはもはや隙間などない。呼吸までも食らい尽くす勢いで貪られ、まるで濁流に飲み込まれたような心地を味わわされた。彼女にできたのは、溺れる者が藁を掴むように、ただ必死で彼の肩口にしがみ付くことだけだった。
 恐る恐る薄目を開けて見てみれば、そこには熱を孕んだ男の眸があった。瞼は閉じられておらず、情欲の炎を宿したまま、まっすぐ春歌の瞳を見据えている。まるでこちらの心の奥底までも曝こうとしているかのようで、それは彼女の肌をぞくりと粟立たせた。
 鼓動は全力疾走をしたときのように速いビートを刻んでいて、心臓が壊れてしまうのではないかと思うくらい痛い。
 それなのに――それでも、胸を満たすのは甘い幸福感で、春歌は再び目を閉じて、荒々しい口づけの嵐に素直に身を委ねた。
 程なくして、唐突に嵐が止んだ。
 名残を惜しむようにゆっくりと離れていく唇を寂しく思いながら目を開ければ、そこには苦り切った表情を浮かべた龍也の顔があった。
 ふぅっ、と、ほんの数秒前まで触れ合っていた唇から苛立たしげな溜息が漏れた。
「……それで、これは誰の入れ知恵だ?」
 その声音を聞いた途端、彼女は甘やかな気分から一気に現実に引き戻され、代わりに頭から冷水を浴びせかけられたような気分を味わった。
「あ、の……」
「昨日、お前は学園のレコーディングルームを使ってたな。ってことは林檎の野郎か」
 淡々とした口調からは感情が一切削ぎ落とされていて、それだけ彼の怒りが深いのだろうということが窺えた。握り締めた拳からもそれが伝わってくるようだ。
「つ、月宮先生は悪くありません。わたしが勝手に……」
「お前にそんな度胸があるかよ。どうせ林檎に何か吹き込まれてその気にさせられただけだろ。大体あいつは……」
「そうかもしれませんけど!」
 尚も言葉を続けようとするのを、春歌は声を張り上げて遮った。
「確かに月宮先生に煽られたのもあります。それは否定しません。でもそうしたいと思って行動したのはわたしの意志です! わたしが先生にキスしたくて、だから……!」
 昂ぶった感情は一度は引っ込めることに成功した彼女の涙を再び呼び戻した。今度は止める術もない。ただ激情のまま、拭うこともせず流れるに任せた。
「今日はキスの日だからそれに便乗すればいいって月宮先生に言われて……あの日以来、先生、わたしに触れてくれないし、それはわたしに魅力がないからしょうがないことなんですけど、たまには積極的に迫ってみればいいって月宮先生に仰有って頂いたのに勇気を貰って……でもうまくできなくて……」
 言っている内にだんだん何が言いたいのか解らなくなってきた。
 ただ、渦巻く感情を形にするのが精一杯で、支離滅裂なまま言葉を重ねた。泣いているのも相俟って呼吸は乱れ放題で、子供のようにしゃくり上げながらといった有様だ。
 こんな風に駄々っ子みたいな真似をしたかったわけじゃないのに。
 対等とはいかないまでも、せめて少しくらい大人として――いや、女として見てほしかっただけなのに、これじゃぁどう考えても逆効果だ。
 そんな思いが益々春歌の自己嫌悪に拍車をかけ、破れかぶれな気分にさせた。
「先生に、少しでも近付きたかったのにっ……」
 掠れた声で最後の本音を漏らせば、再び力強い腕にぐいっ、と引き寄せられ、気が付いたら厚い胸板に顔を埋める形で苦しいくらいに強く抱き竦められていた。
「先、生……?」
「俺に女扱いされたいなら、まずその呼び名を直せよ」
 しっとりした囁きに耳をくすぐられ、春歌は反射的に身を竦めた。耳は弱点なのだ。息がかかるだけでもぞくぞく背中がざわめいてしまう。
「……龍也、さん」
「あぁ、それでいい」
 龍也は抱き締める腕を緩めて、あやすように背中をぽんぽんと叩いてくれた。それからもう一方の手で頭を撫でられ、指で髪を梳られて、そうする内に昂ぶっていた感情は波が引くように落ち着いていった。
 人の体温がこんなにも心を満たしてくれるものだということを、この日初めて知った。いや、本当はもっと前から知っていた気がするから、思い出させてくれたといった方がいいかもしれない。
 ぴったり寄り添った胸からはとくんとくんと力強い鼓動が聞こえてきて、それもまた彼女の気持ちを安らがせた。
「恐がらせちまって悪かったな。俺はお前を大事に扱いたいと思ってるし、だから他人に下らないちょっかいを掛けられたくねーんだ。お前が林檎の口車に乗せられて、興味本位で挑発してきたんだろうと勘繰っちまったんだが、どうやらそれだけってわけでもねーみたいだな。俺は、お前を不安にさせちまってたか?」
「違うんです。先生は……龍也さんは全然悪くないんです。すみません、わたしが勝手にコンプレックスを抱いて、勝手に不安になってただけで……」
「だが、そのコンプレックスを抱かせたのは俺だろ? 春歌が俺に惚れられてるって自信を持ってりゃそんな風に悩ませることもなかった」
 そう言った龍也の声には後悔の色が滲んでいて、春歌は思わず顔を上げて、
「龍也さんは悪くないです!」と声を荒げた。
 彼は驚いたように目を瞠ったが、すぐに表情を和ませ、身を屈めて自分の額を彼女のそれにぴたりと合わせた。
「そうだな、どっちが悪いとかじゃねー。俺達二人して、どっちにも非があった」
 優しい眼差しで促されれば、それ以上意地を張ることもできない。黙って頷いたら、いい子だという囁きと共に、チュッ、と音を立てて口づけられた。
「お前が一人前になるまで、正式に付き合えねーって言ったよな」
「……はい」
「一度手を出しちまったら、ブレーキをかけられる自信がねーんだ。だから極力触れないようにしてた。だが、それで肝心の春歌を不安がらせたんじゃ本末転倒だよな。そうでなくてもアイドルとの恋愛なんて茨道で、不安要素が山程あるんだ。俺のちっぽけな意地でそれを増大させちまってりゃ世話ねーぜ」
 紡がれる言葉はまっすぐに心に染み入ってきた。それは胸の奥で燻り続けていた不安の熾火へも届き、その火種を優しく消し去っていく。
 春歌は自分も何か言わなくてはと思いながら、しかし何を言えばいいのか解らなくて、言葉を探して唇を開閉させた。
「あの、わたし……」
「だから、不安だって思ったら、はっきり口にしてくれ。全部を解消してやるのは無理だが、お互いに何を思ってるか解ってれば歩み寄って対処することもできるだろ」
 そう言った龍也の唇が再び彼女のそれに触れる。
 軽く啄んですぐに離れてしまったが、ついさっき交わした激しいキスとは違う温かな幸せが胸に去来した。
「焦らず、こうやって少しずつ距離詰めてこうぜ。お前のペースでさ」
「はい」
 どんなに望んでも春歌が今すぐ大人になれないように、年齢も経験値も違うのだから、一足飛びに距離を縮めることなんてできない。それならば、一歩ずつ着実に自分のペースで近付いていけばいいのだ。
 慌てて追い着こうとしなくても、彼は自分のことを待っていてくれるのだと、今度は素直に納得できた。
 笑顔で頷いた春歌に、龍也の表情も優しく和んだ。
「そんじゃ、手始めにキスのレッスンの続きでもすっか。今日はキスの日なんだろ。たっぷりレクチャーしてやるよ」
 手始めに降りてきた唇は羽根のような柔らかさで彼女のそれに触れ、二人は暫くの間、鳥が戯れるように互いの熱を啄んだ。





 あの一件から数日経ったある夜、行きつけのバーに林檎を誘った龍也は、注文した酒を味わうのもそこそこに、
「春歌に余計なこと言って焚き付けただろ。ああいうことはもう二度とすんな」と、切り出した。
 明日も互いに仕事があるし、元々今日はそんなに飲むつもりはない。だったら気心の知れた相手同士、下手に引き延ばすより単刀直入に用件を言った方が手っ取り早いというものだ。
 お気に入りのカクテルを一口含んだ悪友は、こちらの反応を楽しむかのようににんまり口の端を持ち上げた。
「ってことは、ハルちゃんはアタシのアドバイス通り、あんたに一戦仕掛けたってわけね。やるじゃない」
「林檎!」
 低めた声で名を呼んだのはあくまで周囲を憚ったからだ。ここは会員制の店で、プライベートで訪れている芸能人にミーハーな態度で絡んでくるような輩はいないが、だからといって自分から目立つ要因を作る謂われはない。たとえ頭に血が上ってもそのくらいの分別はある。これが事務所や互いの部屋だったならきっと声を張り上げていただろうが。
 しかし、当の林檎は全く悪びれた様子もなく、くすくす笑いながらグラスを揺らすばかりだ。その様子は実に楽しげで、余計に苛立ちを煽られる。
「そうよねぇ、あんな無茶苦茶な誘導にあっさり乗せられちゃうようじゃ、龍也もこの先心配よね」
「それが解ってるなら……」
「だったら、ハルちゃんが簡単に乗せられないように、あんたがしっかり導いてやらなきゃでしょ。そうでなくても素直が服着て歩いてるような子だもの、変な輩に目を着けられたら一溜まりもないわ。アタシのちょっかいくらいで揺らいじゃうようじゃ先が思いやられるわね」
 彼は不意に真面目な顔をでそう言い、マニキュアで彩られた爪の先で龍也の胸をトンと突いた。
「……お前、尤もらしく言ってるが、単に面白がってるだけだろ」
「あら、いやぁね、そんなはずないじゃない。親友としての忠告よ、ちゅ・う・こ・く」
 語尾にハートマークが踊っていそうな言葉を鵜呑みにするつもりは更々ない。こいつが自分達のことを肴にしているのは誰の目にも明らかだ。
 だが、林檎の言い分にも一理ある。
 軽く嘆息して肩を竦め、半眼で傍らの悪友を睨め付けながら自分もグラスを傾けた。
「どうだかな。まぁでも肝に銘じとくよ。とりあえず、林檎の言うことを一々真に受けんなってのは春歌にもきつく言い聞かせておくさ」
「ハルちゃんのことだからあんまり効果なさそうだけどねぇ」
 からから笑いながら林檎がグラスを揺らせば、氷が涼しげな音を立てた。
「恋愛なんて理詰めで考えてどうにかなるもんじゃないわ。真面目な龍也がストイックに自分を追い込むのは勝手だけど、それに付き合わされるハルちゃんはたまったもんじゃないでしょうね。適度に距離を縮めないと、お互い消耗して壊れちゃうわよ」
 静かな口調で言う友の眼差しに慈愛の色を感じ、龍也は微かに目を瞠った。
「林檎、お前まさか最初からそのつもりで……」
「知ーらない。アタシがそんなに親切なわけないでしょ。引っ掻き回して面白がってるだけに決まってるじゃない。本気で狼狽える龍也なんて滅多に見られないもの」
「……ったく、お前も大概素直じゃねーよな。でも、ま、サンキュ」
「お礼なんて言わないでよ、水くさい。まぁ、親友が苦しんでるのをずっと隣で見ていながら、結局アタシには何もできなかったからね。その点ではハルちゃんに感謝してるのよ」
 しんみりした口調でぽつりと言って、それからそんな湿っぽい空気を振り切るかのように、彼は一気にグラスを煽った。
「お兄さん、アタシ、カンパリ追加!」
「おい、まだ飲むのかよ」
「次で最後よ。憎ったらしい悪友と可愛い彼女に乾杯してやらなきゃ」
「しゃーねーな……そんじゃ、俺ももう一杯だけ付き合ってやるよ」
 そう言って、自分の水割りも注文し、二人は新たなグラスで乾杯した――歩み始めたばかりの恋人達の前途と、素直じゃない友情に。








「キスの日」ということでキスに因んだお話を!!
というわけでして、キスネタです。可愛いお話にしたかったんですが、可愛くなりませんでした。

あっちなみに林檎先生のレクチャーはもちろん口頭です。
実地演習ではありませんのでご安心下さい(笑)

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