ささやかな独占欲

Presented by Suzume

「春歌、ちょっといいか」
 仕事がひと段落した頃合を見計らって龍也はパソコンと睨めっこしている可愛い恋人の名を呼んだ。
 名字ではなく名前の方で呼んだのは、ここから先の話題が仕事ではなくプライベートなものだと示すためだ。
 画面から目を離した春歌は時計の方をちらりと見やり、表情を和ませて、
「休憩にしますか?」と振り返った。
 時間は14時45分。少し早いが、確かに午後の休憩を取るのにはちょうど良い時間だ。狙ったわけではなかったのだが、タイミング的には申し分ない。
 それに、仕事の合間のどさくさでしたい話でもない。
 彼は瞬時にそんなことを考えて、さも最初からそのつもりであったかのように頷いた。
「あぁ、ちょうど切りがついたんでな。そっちが区切りついたらコーヒー入れてくれ」
 眼鏡を外してそう告げれば、愛しい少女は顔を綻ばせて席を立った。春歌の方もちょうど手を休められるタイミングだったようだ。
「昨日、月宮先生が差し入れて下さったクッキーがあるのでそれも出しますね。先生、今日は何だか落ち着かないご様子ですし、甘い物を食べたら少しは疲れが取れるかもしれません」
 キッチンスペースに向かいながらそんなことを言う彼女に龍也は思わず苦笑を漏らし、
「別に、疲れてるわけじゃねーんだがな」と肩を竦めながら独りごちた。
 落ち着きがないということに関して否定するつもりはなかったが、まさか春歌に見抜かれているとは思っていなかった。普段のほんわかした雰囲気と恋愛方面への鈍さから失念していたが、そういえば彼女は案外人の機微に敏いところがあったのだ。
 朝からそわそわしていたのを気付かれていたのかと思うと少しばかりばつが悪いが、今更取り繕ったところで仕方がない。
 意を決した彼はスーツのポケットからそれを取り出して、そっと自分の手の平に乗せた。
「今日はミルクとお砂糖はどうしますか? クッキーがあるからブラックにします?」
「そうだな……ミルクを少しだけ入れてくれ」
 龍也の言葉に柔らかなソプラノが「はい」と応じた。
 何ということのないやりとりだが、こういう穏やかな日常は仕事に忙殺されている彼にとっては至福ともいえるひとときだ。
 程なくして、キッチンの方からコーヒーの豊かな香りが漂ってきた。
 龍也の好みに合わせて彼女がドリップしてくれたコーヒーは今ではなかなかのもので、そこらのコーヒーショップなどで飲むよりよほど美味い。最近は豆の方にも拘り出したらしく、その味はますますレベルアップしていた。
「お待たせしました」
 まるでウェイトレスのように慣れた仕草で春歌がトレーを抱えてキッチンから戻ってきた。そして、先ほど名前で呼んだこちらの意図を汲んだのだろう、デスクではなくソファの前のリビングテーブルへ湯気の上がるカップとクッキーの盛られた皿を並べていった。
 彼女の方に置かれたカップの中身が龍也のものと僅かに色が違っているのは、ミルク増量のカフェオレ仕様だからだ。最近は龍也に合わせてか砂糖の量を減らす努力もしているようだがまだブラックへの道のりは程遠いらしい。
「ありがとな」
 笑顔で礼を言えば、春歌は微かにはにかんで首を振り、ちょこんっ、とすぐ隣に腰を下ろした。これは想いを通わせ合ったことで縮まった距離だ。以前はもう少し離れた場所に座っていた。そんなささやかな変化が妙にくすぐったく、彼の心を温かく満たした。
 その距離を――物理的なものではなく、精神的な意味で、もう少しだけ詰めておきたい。
 そう願うのは大人げないわがままだろうか。
 龍也は手の平に握り込んだそれを痛いくらいに意識しながら可愛い恋人の横顔を見つめた。
 今はまだ少しばかり地味ではあるが、素材は申し分ない。その気になって磨けば見違えるほど美しくなることだろう。それに加えてその類い稀なる音楽センスと、善良で無垢な性質は、何物にも替えがたいものだ。知れば知るほど、魅かれずにはいられない。
 幸い今はまだ春歌の魅力に気付いている者はそう多くはない。だが、これからもそうだとは限らないだろう。事実、いち早くそれに気付いて要らぬちょっかいをかけている奴等もいるのだ。
 龍也はつい先日まで教え子だった三人の顔を思い浮かべて渋面を作った。
 だというのに、当の本人はといえば、恋人としての過保護を別にしても、見ている方が心配になるくらい色恋について鈍すぎる傾向があった。こうして恋愛感情を抱く前、ただの教師と生徒だった頃から、危なっかしく思ったことは数えきれない。
 擦れていないと言えば聞こえはいいが、危機感が足りないのは問題というべきだろう。
 やはり、牽制と予防は必要だ。
「先生?」
 一向にカップに手を着けない彼を訝しんで、春歌が小首を傾げながら問いかけてきた。
 つぶらな瞳が心配そうに揺れているのを見てとり、龍也は口の端を持ち上げて、
「ちょっとな」と答えた。
 それから、さりげなく傍らの少女の手を取って引き寄せ、白い指先にそぅっと口づけた。
「せせせせ先生!?」
 春歌は狼狽えたように声を上擦らせたが、しかし手を引くことはない。
 そのことに安堵しながら、もう片方の手に握り締めていたそれを彼女の指――右手の薬指へ嵌めた。
「先生じゃねーだろ」
 囁くように窘めれば、春歌は頬を染めながら「龍也さん」と言い直した。
「それで……あの、それは……?」
「まぁ、コンペ入賞の祝いみてーなもんだ。それと、お前が俺のもんだっていう証だな。御守り代わりとでも思って毎日忘れずに着けとけよ」
 言いながらプラチナのリングをそっと撫でた。
 飾り気のないユニセックスなデザインの指輪は、いかにも少女然とした彼女が嵌めるには少しばかりシンプルすぎるかもしれない。恋人とのペアリングか、それとも男から虫除けにと貰ったものか――少し勘の働く者ならばそう結論づけることだろう。それこそが龍也の狙いだ。
 少し緩かったか、などと思っていたら、
「……良いんですか?」と震える声で春歌が聞いた。
「何がだ?」
「指輪なんて特別なもの、本当にわたしが頂いてしまって良いんですか?」
「お前以外の誰に贈れっていうんだ?」
 嬉しさと不安が入り交じった眼差しを見つめ返しながらはっきりそう告げた龍也に、彼女は安堵したように破顔して、押し頂くように自分の指に踊るリングに触れた。
「ありがとうございます」
 そんな幸せそうな顔をされたらキスのひとつもしたくなるというものだ。
 胸に湧いた衝動を誤魔化すように咳払いなどして、彼は何食わぬ顔で少し冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。
「ちょっと緩いみたいだから、後で直さねーとな。ぴったりのサイズのを贈ってやれりゃ良かったんだが……悪い」
「そう、ですね。でも中指ならぴったりかもです」
 そう言って指輪を中指に付け替えようとした春歌だったが、龍也がすかさずその手を取って阻んだ。
「薬指ってのは別名リングフィンガーっていうんだぜ。その指に嵌めないでどうすんだよ」
 熱の籠もった眸で見つめ、囁くように言い含めた。
 本当なら左手のその指に嵌めさせたかった。男女の愛の証としてこれほど相応しい指はない。男避けとしてもその方がずっと効果的だし、彼女だってその方が自分が誰ものなのかを実感できることだろう。
 だが、春歌にとってこれからが大事な時期なのだ。迂闊に危ない橋を渡らせるわけにはいかない。
 だからせめて、嵌める手は違えども、その特別な指に印を刻んでおきたい。
 龍也の内心の葛藤が伝わったのか、黙ってこちらを見つめていた彼女は、やがて微かに口元を綻ばせて小さく頷いた。
「解りました。お直しは買ったお店でないといけないんでしょうか?」
「そんなことはないと思うが……後で林檎にでも聞いとくよ。さすがに一緒に行ってやるわけにはいかんから、不安なようなら渋谷にでも付き添って貰え。あいつならそういうの詳しいだろうしな」
 苦笑混じりにそう言えば、春歌がにっこり笑って首肯した。
 林檎に話したらきっと盛大にからかわれることだろう。しかし、それは悪意があってのことではなく、彼なりの祝福の形だ。たまにはそういう屈折した友情を甘んじて受けるのも悪くない。
 そして付き添いの相手として名指しした渋谷は、春歌にとって無二の親友ともいうべき存在で、この少女達が互いにとても篤い友情を育み合っていることを龍也もよく知っていた。彼女ならば、もし二人の関係を知ったとしても、決して春歌の不利になるような真似はしないに違いない。
「誰かに聞かれても、俺から貰ったなんて言うなよ」
 本当は自分こそが、誰彼構わず「こいつは俺のものだ」と吹聴して回りたいと思っているくせに、そのためにこんなものまで用意しておきながら、一体どの口がそんなことをほざくのか。
 自嘲めいた感情を持て余しながら、しかしそんなものはおくびにも出さず、龍也はいつもと同じように彼女の頭をぽんっ、と撫でた。
「あの……トモちゃんには、誰かから貰ったというのは気付かれてしまうかもです」
「そりゃそうか。まぁ渋谷くらいなら言っても構わねーよ。詳細は伏せてな。あとは……そうだな、林檎や一ノ瀬達に何か聞かれたら俺から御守りに持たされたとでも言って誤魔化しとけ。あいつらなら大丈夫だと思うが、念のため口止めも忘れんなよ」
 どういう意味での「御守り」かは、渋谷や林檎、一ノ瀬、神宮寺辺りなら細かく説明するまでもなく察することだろう。来栖がどこまで勘付くかについては未知数だが、あれでなかなか気の回る奴だし、渋谷同様、自分や春歌の不利益になるような真似をすることはないはずだ。
「それなら大丈夫そうです。他の方に聞かれても、誰から頂いたか言わずに「御守り」ですって言って誤魔化しますね」
 ふんわり笑った彼女は、不意にリングにキスをするかのように唇を寄せた。
 その横顔が――伏せた瞼の先で揺れる睫毛や、微かに尖った桜色の唇が、妙に艶めいて見えて、龍也は我知らず喉を鳴らした。
「こうして龍也さんから頂いた指輪を着けていると、何だか龍也さんがずっと側で守って下さっているみたいで心強いです。お忙しくて会えないときもずっと一緒って感じで」
 鈴を転がすような声音で、そんな可愛らしいことを言う春歌がたまらなく愛おしい。
 彼は湧き上がる衝動を抑える努力をついに放棄して、その華奢な体躯を少し強引に抱き寄せた。そして、もう一方の手で白い繊手を掴んで引き寄せ、それまで愛しい恋人の可愛らしい唇が触れていた場所へ、自分も同じように口づけを落とす。
「左手の薬指に嵌めるやつは、お前が一人前になって……夢を叶えるまでお預けだ。恋人として大手を振って付き合えるようになるまで、この「お守り」で俺に縛られててくれ」
 そう言って春歌の瞳を見つめれば、彼女は耳まで真っ赤に染めながら小さく、それでもはっきりこくんっ、と頷いてくれた。
 緊張に強張った肩、落ち着かなげに揺れる瞳、言葉を探して忙しなく動く唇――そのどれもがまるで誘っているようで、龍也の中の自制心をじわりじわりと剥ぎ取っていった。
 勤務時間中とはいえ、今は休憩時間だ。
 プライベートな時間だと思えばこそ、指輪を渡すなどということをやってのけたわけで、今はまだその延長線上だ。
 自分の中で数多の言い訳を用意しながら、引かれるように口づけた。
 春歌の肩がびくんっ、と震えたのは唇が触れた瞬間だけで、あとはするすると全身の強張りが抜けていった。まるでこちらに全てを委ねてくれているようで、そんなことがどうしようもなく嬉しい。
 龍也は可愛い恋人を驚かさないよう、柔らかな唇を優しく啄んだ。
 微かに香るコーヒーの味がまるで媚薬のように彼の頭を痺れさせたが、二度三度と角度を変えて味わっただけで、触れたときと同じくらいそぅっと離した。
 名残を惜しむような潤んだ双眸に意志が挫けそうになるが、今度は理性の方が勝利した。ここで流されてこれ以上の行為に及んだら絶対に途中で止めることなどできないだろうし、そのリスクはあまりにも大きい。そして、そのくらいの計算が働くくらいの冷静さは幸いまだ持ち合わせていた。
 龍也は場に残る甘い雰囲気を払拭するかのように、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して、口の中の苦味を誤魔化すべくクッキーを一枚口の中に放り込んだ。
「今日は夕方からバラエティーの収録があるからな。それまでにできるとこまで終わらせっぞ」
 気持ちを切り替えて仕事の指示を出せば、春歌も弾かれたように動き出した。
「残ったクッキーは湿気ってしまうので缶に戻しておきますね」
 言いながら手早く空になったカップとクッキーが残ったままの皿をトレーに乗せ、キッチンスペースに消える。普段はぽやんとしている春歌だが、こういう場面での切り替えの素早さはなかなかのものだ。部下としても恋人としても申し分ない。
「ほんと、いい女だよ、お前は」
 聞こえていないのを承知の上でぽつりと漏らし、龍也は今度こそ仕事を再開した。

 時間になって仕事場を出る際、春歌がいつものように玄関まで見送ってくれた。
「お気を付けて。収録頑張って下さいね」
 これから向かうのはシャイニング早乙女が司会を務めるバラエティー番組の収録で、いつも無茶振りをされるので気重なことこの上ないのだが。
 愛しい恋人の指で揺れるささやかな独占欲の証は、煩わしい気分さえも吹き飛ばしてくれるようで、この日、彼は珍しく軽い足取りでスタジオへ向かうことができたのだった。








指輪はつける指によって意味がいろいろあるのだとか。
諸説ありますが、私が参考にしたページでは、右手の薬指の指輪は
「感性を高め、創造性やインスピレーションを刺激する」という意味がありました。
龍也先生は意図してのことではありませんでしたが、
この時期の春歌たんにはぴったりだったのではないかと!

ちなみに右手の中指には「恋人募集中」の意味があるという話も。
龍也先生が断固として薬指に拘った理由がそれかどうかは定かではありません(笑)

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