魔法の手

Presented by なばり みずき


 節くれ立った手が鍵盤の上を踊る度、春歌の胸は大きく高鳴った。
 誰かがピアノを弾いているのを見るだけでこんな風に──肌が粟立つような心地になったことなど一度もない。
 一度意識したらもう駄目だった。
 まるで自分自身が鍵盤になって触れられてでもいるかのようにドキドキして、奏でられた音など全く耳に入ってこない。
「……ん? どうした?」
 春歌が完全に上の空になってしまっているのに気がついたのだろう、日向が手を止めてこちらを覗き込んでくる。
 垂れ目がちな、しかしどこか大人の色気を滲ませた眼差しで見つめられた途端、もうどうしていいか解らなくなって、
「す、すみません!!」
 春歌は固く目を閉じ、声を裏返らせて半ば叫ぶように言った。
 顔から火が出そうな、というのはこんな状況を言うのだろう。
 恥ずかしさと居たたまれなさで身の置き所もない。
 と、身を縮めて俯いていた春歌の耳に微かなため息が聞こえた。
 呆れられてしまったのだろうか。
(先生はお忙しい中わざわざ時間を割いてレッスンして下さってるのに、こんなことで気を散らしてしまうだなんて……呆れられて当然です)
 己の不甲斐なさにますます自己嫌悪が増す。
 挽回するには、余計な雑念をすぐにでも頭から締め出して、レッスンに集中して成果を出して、それから──
「七海」
 ぐるぐる考え込んでいた春歌を現実に引き戻したのは耳に心地良いテノールだった。
「そんなガチガチにならなくても大丈夫だ。悩み事があるってんなら聞いてやるし、集中出来ねーなら落ち着くまで待ってやる。だから、そんな泣きそうなカオすんな」
 日向はそう言うと、いつものように春歌の頭をポンポンと撫でた。
 つい今し方まで自分を魅了していた手に触れられていると思うと体温が一度も二度も上がってしまいそうな気がしたが、胸に去来するのは不思議な安心感だった。大丈夫だと言ってくれたその声が耳の奥にこだまして、それもまた春歌の気持ちを落ち着けてくれる助けになっているのかもしれない。
 気がつけば、パニック状態に近かった気持ちが凪いだ海のように落ち着いていた。
「……先生の手って、まるで魔法の手ですね」
 見ているだけでこんなにドキドキさせられたり、そうかと思えば触れられてこんなにも気持ちが安らいだり――そんな風に、種も仕掛けもなく人の心を変幻自在に動かすのだから、これはもう魔法というより他ないのではないだろうか。
 春歌は極めて真剣に言を継いだのだが、当の日向は鳩が豆鉄砲でも食らったかのように目を丸くしてこちらを見ている。
 もしかして、自分は何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。
「あの……先生?」
 窺うように長身の日向を見上げると、我に返った彼は、その端正な顔をクシャクシャにして大笑いした。
「せ、先生……?」
 突然の爆笑に、今度は春歌が面食らう番だった。
 日向がどうして急に笑い出したのか見当がつかない。
 オロオロする春歌の頭を再び日向の手が撫でた。今度はさっきよりも少し乱暴だったが、勘違いでなければその分親しみが込められているような気がする。
「おまえ、ホント面白いな。魔法ときたか」
 カラカラ笑いながらそう言って、日向はふっと表情を改めた。眩しいものを見るような、柔らかい眼差しで見つめられ、妙に落ち着かない気分を味わう。
「俺にとっちゃおまえらの方がよっぽど魔法の手の持ち主みたいなもんだけどな」
「え?」
「おまえの手は、人の気持ちを揺さぶる手だ。この手が紡ぎ出すメロディーが、人を感動に導いたり、ゾクゾクするほど興奮させたり、切ない気持ちにさせたり、時に誰かを慰める。作曲家ってのは、本当にすげーもんだよな」
 噛み締めるような言葉に胸の奥が熱くなった。
「私も……そういう作曲家になれるでしょうか……?」
「ああ、少なくとも俺はそう思ってるぜ。入試の時の曲も、課題で提出してきた曲も、荒削りだがかなりのレベルだ。メロのセンスが良くて、聴いてるだけで……いや、譜面を見てるだけでワクワクさせられる。時々いるんだよな、そういう奴がさ」
 手放しで褒められて、春歌は頬に熱が集まっていくのを感じる。
(そんなに評価して下さっていただなんて、恐縮してしまいます。でも……日向先生に期待して頂けているなら、それに応えたい)
 湧き上がる想いが決意を強めた。
 尊敬している相手にそこまで言ってもらえたのだから、奮い立たなければ嘘だろう。
「先生に認めて頂けるよう、精一杯頑張ります!」
 勢い込んで宣言すると、彼は笑みを深くして頷いてくれた。
「その意気だ。期待してるぜ。おまえは俺の可愛い――自慢の生徒なんだからな」
 その言葉に、なぜだか鼓動が大きく跳ねた。
 嬉しいような、くすぐったいような、そんな気分だ。
 何か言わなければと思うのに、うまく言葉が出て来ない。
 結局、春歌はいつもより僅かに速いビートを刻む鼓動を持て余しつつ、
「レッスンの続きをお願いします」
 と言って、再び鍵盤に向き直った。
 原因不明の落ち着かない気持ちはひとまず棚上げにして、今はレッスンに集中しよう。

 胸に灯ったその小さな想いの欠片に名前がつくのは、あともう少し先だけのお話。








拍手の御礼用掌編としてアップしていたものです(初出 2012/12/30)
早乙女学園在学中のハルちゃん。
きっと自分でも気づかない内に恋心が芽吹いてたんじゃないかな〜と。


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