ねがいごと

Presented by なばり みずき


「あ」
 仕事を終えて帰り支度をしていた春歌が、ふと小さく声を上げて手を止めた。
 何気なく見やると、彼女の視線はまっすぐ机上の卓上カレンダーに据えられている。ということは忘れていた予定か何かを思い出したといったところだろうか。
「どうかしたのか?」
「いえ、そうではなくて……先生、来週お誕生日なんですよね。何か欲しいものとかありませんか?」
 何とはなしに訊いた龍也に、春歌ははにかみながらそんなことを言い出した。
 誕生日――そうか、もうそんな時期か、と自らもカレンダーを見ながら胸中で独りごちる。
 例えばここで「お前が欲しい」などと言ったら、ウブな彼女は一体どんな反応を見せてくれるのだろう。
 そんな考えがチラリと頭を掠めたが、龍也はすぐさまそれを一蹴した。
 春歌が一人前になるまで正式な恋人としての交際はしない。
 そう決めたのは誰あろう自分で、食い下がる春歌を押し留めたのはつい先日のことだ。
 冗談でもそんなことを言えば彼女に変な期待を持たせるだけだ。そんなのは恋を知ったばかりの彼女に対する仕打ちとしてあまりにも酷といえるだろう。
 それに、もしも彼女がイエスの答えを返してきたとしたら、どこまで己を律することが出来るかわかったものではない。自分の首を絞めるような行為はしないに限る。
 龍也は胸裡に去来した様々な雑念を一時脇へと追いやって、まっすぐこちらを見つめてくる可愛い部下に笑みを返した。
「その気持ちだけありがたくもらっとくよ」
「気持ちだけ……」
 春歌が龍也の言葉を鸚鵡返しに呟いて肩を落とす。
 しゅんと項垂れた様は捨てられた仔犬のようで、思わず罪悪感に駆られた。
 とはいうものの、準所属になって間もないようなひよっこから何かを贈ってもらうというのも気が引ける。懐事情が判りきっているだけに尚更だ。
 どうしたものかと思案する龍也の前で、不意に春歌が顔を上げた。その表情にはありありと「妙案が浮かびました」と書かれている。
「では、気持ちだけということで、当日は先生の言うことを何でも聞きます!」
「は!?」
 何がどうしていきなりそんな結論に達したのか。というか、こいつは自分の発言の意味をはたして理解しているのだろうか。
 にわかに浮き足だった龍也だったが、
「母の日の肩叩き券とか、そんな感じで。仕事以外の雑用とか、何でも言いつけて下さい」
 邪気のない笑顔で言われたセリフに、すぐさま浮かしかけていた腰を落ち着けた。
「あ、ああ、そういうことか……」
 一瞬不埒な意味合いで受け止めてしまったのを軽く咳払いで誤魔化しつつ、ため息混じりで期待に満ちた春歌の瞳を見つめ返す。
「お前なあ……何でも、とか、そんなこと軽々しく口にすんな」
「え?」
 きょとんとしてこちらを見つめる少女に苦笑し、龍也は席を立って彼女の前に立った。それから身を屈めて目線を同じ高さに合わせ、
「七海にそういうつもりがなかったとしても、世の中には、わざと曲解して無茶な要求をしてくるようなタチの悪い人間もいるんだよ。だから、軽々しくそういうことは言うなってこった」
 頭をひとつポンと撫でて子供に言い聞かせるように言を継ぐ。
 子供扱いでもしないとやっていられないというのが正直なところだ。
 恋情を押し留めているのはなにも春歌ばかりではない。自分も同じだ。いや、むしろこちらの方がその度合いは遥かに強いといっていいかもしれない。彼女の想いが淡い恋心だとするならば、龍也の抱いているのは燃え盛る炎のような熱情だ。自分の想いで心が火傷しそうだ、などとクサいことを思ってしまうほどに。
(惚れた女から「何でも言うこと聞きます」なんて言われりゃ、そりゃあ色っぽいことを期待したくもなるってもんだろ。だが、流されちまうわけにゃいかねーからな)
 胸の裡に巣食う想いを見透かされないよう、せいぜい良い大人のフリをして告げた龍也だったが、そんなこちらの虚勢を知ってか知らずか、春歌は思いつめた表情で口を開いた。
「先生、わたしだって誰彼構わずこんなことを言ったりしません。先生にだから、こんなことを言うんですよ。先生にだったら……曲解されたって構わないんです」
 頬を薔薇色に染めて視線を落とし、消え入りそうな声でそんなことを言う。
 奥手で引っ込み思案な春歌がこんな科白を言ってのけるのに、一体どれだけの勇気を振り絞っているかは想像に難くない。事実、彼女の表情は緊張に強張り、胸の前で組まれた指先も微かに震えているのが見てとれる。
 瞬間、己の胸が引き絞られるような心地を味わった。
 惚れた女からこんな可愛いことを言われ、尚且つその気持ちを無碍に扱えるほどの鉄壁の理性は、生憎と持ち合わせてはいない。
 龍也は天ならぬ天井を振り仰ぎ、自らの倫理と折り合いをつけるべくいくつかのことを考え――それからゆっくりと息を吐き出した。
「そういう科白はもっと大人になってから言うもんだ。だが、その心意気は認めてやるよ。恋人みたいな甘ったるい願いごとってわけにゃいかねーが、何かお前に頼めそうなことを考えとく。それでいいか?」
 白旗を掲げた気分で言った龍也に、春歌はそれはそれは幸せそうに破顔して頷いた。
「お料理でも、肩揉みでも、おつかいでも、何でも言いつけて下さい!」
 解っているんだかいないんだか、頬を上気させて意気揚々と言う彼女は抱き締めてしまいたいくらい可愛くて、龍也はますます苦笑を深くした。
 安易に触れるつもりはないが、それでも、ずっとこの笑顔を見ていたい。
 そんな思いが胸の奥に灯り、ふと、ひとつの答えが閃いた。
(そうか、俺が一番欲しいのは……)
 自分の中ではっきりと形作られた明確な願いごと――それは果たして、恋人未満という関係の中で願っても許される範囲のものだろうか? 半端に彼女の中の恋情を煽ってしまう結果にならないだろうか?
 自問したところで、答えなど出るはずがない。その答えを導き出すことが可能なのは目の前の少女だけなのだから。
「……? 先生?」
 急に表情を消して黙り込んだ龍也を訝ったのだろう、春歌が心配そうな顔をしてヒラヒラと目の前で手を振っている。
「あの、お疲れのようでしたら休憩された方が良いですよ。わたし、帰る前にコーヒー淹れますね」
「いや、そうじゃねーんだ。そうじゃなくて……」
 言葉を濁しつつ適当な言い訳を考えようとしたが、だんだんそんなことをして逃げを打っている自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 俺はお前に惚れていると、そのことはたしかに春歌に伝えてある。
 龍也が選んだのはその上での節度あるつきあい――即ち一線を越えない関係を維持するということで、胸の裡にある想いを消し去るというものではなかったはずだ。
 己の想いが万が一にも暴走しないようにと思うあまり、どうやらかなり気負って保身に走ってしまっていたらしい。
 そう思ったら、全身からふっと力が抜けたような心地がした。
「先生? 本当に大丈夫ですか?」
 問い訊ねる声はいよいよ真剣味を増している。
 無理もない、眼前で突然百面相されれば誰だって不審に思うに違いない。
「前にも言ったが、俺はもうお前の『先生』じゃねー。名前で呼べって言ったよな」
 耳元へそう囁いて、頭を撫でるついでに柔らかい髪を一房指に絡ませ、散らす。
 些細なスキンシップに、ウブな彼女はあっという間に頬を染めた。
「あ、はい……えーと、龍也さん……」
 気恥ずかしげに名前を呼んだ春歌は、気遣わしげな眼差しで「どうしたんですか?」と問うてくる。
「お前への頼みごと、決まったぜ」
「え? もうですか? 何をすればいいんでしょう?」
 驚いたように目を瞠り、それから彼女は身を乗り出さんばかりの勢いで問いを重ねてきた。その無防備な笑顔につられるように微笑んで、
「お前の、とびっきりの笑顔を見せてくれ」
 頬に手を添え、はっきり告げた。
「……え……?」
 そう、龍也が今一番欲しいもの――それは愛しい少女の一番いい笑顔だ。
 つい今し方見せてくれたような、眩しいばかりのその笑顔を独り占めしたい。
「駄目か?」
「それは構わないのですが、とびっきりの笑顔と言われましても……」
 龍也の問いに、春歌は困ったように眉を下げた。
 まあ、この反応は半ば予想していたものだ。妥当な反応と言い換えてもいい。
 これがアイドルコースの卒業生に対して言ったのであれば、そう難しい注文ではなかっただろう。彼らは自分が一番魅力的に見える笑顔というものを常に研究しているし、笑って見せろと言われればそれなりの笑顔を浮かべることも出来る。そのくらいやってのけてもらわなければアイドルなどという商売は成り立たない。
 しかし作曲家コースの生徒達はそんな術は学んでなどいないのだから、突然「とびっきりの笑顔を見せろ」だなどというのは無茶振りにもほどがある。
 だが、龍也が見たいと思っているのは、そういった、商品価値のある作り物めいた笑顔ではない。この提案にしたところで、決して無理を強いてのことではないのだ。
「当日の俺のスケジュールは、たしか半日オフだったはずだ。その半日、お前には俺と過ごしてほしい。お前がとびっきりの笑顔を浮かべられるようなプランを考えておくからよ。どこかに出掛けるのも悪くないが、お前ならレッスンでも喜びそうだよな」
 色気はないが、そういう過ごし方も自分達らしくていいかもしれない。
 思わず想像して顔を綻ばせた龍也だったが、ふと視線を感じてそちらに目を向けると、春歌が何か言いたげな、複雑そうな表情でこちらを見上げているのに気がついた。
「どうした? もう何か予定が入ってたか?」
「いえ、そんなことはありませんけど……」
「それじゃ、何だ? 何か不満そうに見えるが、言いたいことがあるなら今の内に言っといてくれ」
「不満なんて……! そうじゃなくて――先生をお祝いしたいのに、それではわたしばかり嬉しくて、何だか申し訳ないです」
 言葉通り、至極申し訳なさそうに肩をすぼめて、困り顔で俯いてしまう。
 そんな態度もまた可愛くて愛おしさがいや増すばかりなのだが、今それを説いたところで始まらない。
 龍也はその男らしい貌に微苦笑を浮かべ、額が触れるくらい至近距離から春歌の瞳を覗き込んだ。
「俺が、お前の喜んでる顔を見たいんだよ。だから、お前は黙ってそれに協力してくれりゃそれでいいんだ」
「せ、先生、顔が近いです」
「先生じゃねーって言っただろ」
「龍也、さん……」
 言い直した春歌の頬が、また一段赤味を増す。
 伏せた瞼の先で揺れる睫毛だとか、困ったように泳ぐ視線だとか、緊張に震える唇だとか――そういったあれこれにどうしようもなく惹きつけられて目が離せない。
 自分で引き起こした事態ながら、この表情は至近距離で見るにはあまりにも目の毒だ。
「……やっぱり、当日のプランはレッスンだな。お前にはガンガン実力つけてもらって、一日も早く俺の曲作れるレベルまで駆け上がって来てもらわねーと」
 そうじゃないと、俺の忍耐力がいつまで保つか判りゃしねーからな。
 続く科白は胸中にのみ留め置く。
 そして彼は、可愛い部下の額にチュッと音を立ててキスをした。無意識に誘惑をしてくる春歌へのせめてもの意趣返しだ。
 一方、当の春歌はといえば、不意打ちの額へのキスによほど驚いたらしく、顔どころか首筋まで真っ赤に染めてその場にへなへなと座り込んでしまった。
「先せ……龍也さん、あんまりからかわないで下さい。心臓が壊れてしまいます……」
 涙目のまま恨みがましく見上げてくるのも、苦情というにはあまりに可愛らしい科白も、何もかもが龍也の目には扇情的に映るのだが、それは知らぬが花というものだろう。
「からかってるわけじゃねーんだが」
 ないのだが――これ以上はお互いのためによろしくなさそうだ。いろいろな意味で。
 そんなことを思いながら、龍也は内心でそっとため息を洩らすのだった。

 誕生日当日は、当初の予定通り半日春歌とのレッスンに費やした。
 彼女からのプレゼントは、願った通りの最高の笑顔と、心尽くしの手料理。
 そして、もうひとつ――帰り際に不意を打つ形で捧げられた春歌からの甘いキス。
 ウブな少女の精一杯の背伸びは、龍也の心と記憶に甘く甘く刻まれたのであった。








「龍也先生お誕生日おめでとうございます」ということで、うたプリ龍春に初挑戦。
思いきり習作感アリアリですが、そこはご愛敬ということで大目に見てやって下さいませ〜。


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