ささやかで幸せな日常のひとコマ

Presented by Suzume

「ただいま」
 そう言って龍也がドアを開けたのと同時に、
「お帰りなさい、龍也さん!」と、可愛い恋人が足音も軽やかに駆け寄ってきた。
 人目を忍んで恋愛関係を育む二人にとって、事務所と同じ建物にある彼の個人オフィス兼自宅は非常に便利なデートの場所だ。
 この日は打ち合わせを兼ねて呼び出していたのだが、合鍵を渡す間柄だから先に春歌が部屋に来ているだろうことは想定済みだった。
 愛する女に「お帰りなさい」と迎えられるのはまるで夫婦のようで少しばかり擽ったいが、それ以上に幸せで胸が熱くなる気分の方が強い。
 龍也は高揚した気分のままに相好を崩し、愛しい恋人にただいまのキスをした。
 初な春歌は突然の口付けに驚いて微かに肩を跳ねさせたが、すぐに笑顔になって頬にキスを返してくれた。
「今日はずいぶんご機嫌ですね。お仕事で良いことでもあったんですか?」
 にこにこ尋ねてくる彼女は、やっぱり少し鈍い。そういうところがまた可愛くて仕方ないのだが。
「違ぇよ。まぁ仕事はトラブルもなく順調だったし、悪い一日でもなかったけどな」
「じゃぁどうしてそんなにご機嫌なんですか?」
「言わなきゃ解らねーか? そりゃ勿論、疲れて帰ってきたとこへ可愛い恋人が「お帰りなさい」って迎えてくれたからに決まってるじゃねーか。新婚生活の予行演習みたいだなって疲れも吹き飛ぶし、機嫌だって良くなるってもんだろ」
 そう言いながら、つんっ、と額を突いてやれば、春歌は瞬く間に頬を朱に染めて俯いてしまった。
 こういう初々しい反応が堪らなく可愛らしく愛おしい。
 幸せな生活というのはきっとこういう瞬間の積み重ねなのだろう。いつかそういう営みを彼女と築いていかれたらと思う気持ちに嘘はない。
 しかし、まだ年若い春歌には、これ以上現実的な話題を続けたら少しばかり重く思われてしまうかもしれない。
 ここらで茶を濁した方が賢明かと思った龍也だったが、彼が口を開くより、相手が顔を上げ口を開く方が早かった。
「そ、それでしたら、わたしは「ごはんにしますか? それともお風呂にしますか?」とお聞きした方が良いでしょうか?」
 真っ赤な顔のまま思いもよらない爆弾を投げ付けられ、不覚にも龍也は二の句が継げずに固まってしまった。
 一体どこでそんな知識を植え付けられてきたのか。
 心当たりを数人思い浮かべながら、彼は微かに吐息して、それから人の悪い笑みを浮かべて恋人の耳元へ唇を寄せた。
「最後の、一番肝心な選択肢が抜けてねーか?」
 形の良い耳へそう甘やかに囁けば、奥手な春歌は先程よりも顕著に身を強張らせてしまった。
 しかし、導火線に火を点けたのは彼女の方なのだから反撃の手を緩めてやる謂れはない。
 先の言葉を促すように「ん?」と重ねて声をかけたら、春歌は意を決したように息を吸い込んで、おずおずと口を開いた。
「ご、ごはんにしますか? お風呂にしますか? それとも……わ、わた……わたしに……」
 と、それが限界だと言うように言葉尻が掠れて消えてしまう。
 耳朶どころか項まで真っ赤に染めて、懸命にこちらのリクエストに応えようとしてくれているその姿は悩殺級の愛らしさで、龍也は安易に挑発に乗ってしまったことを頭の片隅で反省した。
 恋人からこんな可愛らしくお約束の台詞を貰ってその気にならない男がいたらお目に掛かりたいものだ。
「そんじゃ、飯は後回しにして、まずは一緒に風呂でも入って、 それからメインディッシュを頂くとすっか」
 言うが早いか、彼は春歌の華奢な躰を軽々と抱き上げるや、跳ぶような足取りでバスルームへ直行した。
 メインディッシュを心行くまで堪能した龍也が夕飯にありついたのは時計の針が日付を跨いでからのことだ。

 それは、ささやかで幸せなある日の出来事。
 二人にとってそれが当たり前の日常のひとコマになるのはもう何年か先のお話。








※ペーパーより再録(初出 2015/12/30 コミックマーケット89にて発行)
実は、ひかちさんのお誕生日に気持ちばかりですが……と送ったSSをペーパー用に体裁整えたものでした。
タイトル通り、龍春ちゃんのささやかで幸せな日常のひとコマです。

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