罪つくり

Presented by なばり みずき


「あら? ハルちゃん、今日はちょっと髪の感じが違わない?」
 龍也と雑談していた林檎が、不意に振り返って言った。
「はい、あの、シャンプーを変えたんですけど……判りますか?」
 思わず目を瞠って訊き返す。
 シャンプーを変えたのは数日前で、自分では見た目の変化はあまり感じられない。実際に触れば手触りなどの変化が感じられるが、ちょっと見ただけで看破されるとは思わなかった。
「判るに決まってるじゃない。伊達や酔狂でこんな格好してないんだから」
 胸を張って言う林檎に、そういうものかと納得する。
「トモちゃんがメイクさんに教えてもらったメーカーのなんだそうです。業務用で、保存料も入ってないやつだからってお裾分けしてもらって……」
「なるほど、道理で髪が生き生きしてるわけだわ。今日のハルちゃんの髪、ツヤツヤしててすっごく綺麗だもの」
「そうですか? ありがとうございます!」
 これだけ綺麗な人から手放しで褒められるとやっぱり嬉しい。
 春歌ははにかみながら礼を言った。
「ねえ、ちょっとだけ触ってみてもいい?」
「はい。構いませんよ」
 二つ返事で頷くと、林檎が笑みを深めて手を伸ばしてきた。耳のサイドの毛束を一房、男性にしてはほっそりとした手指が恭しく掬う。
「うわあ、本当にサラッサラ! それにいい香り」
 すん、と林檎が鼻を鳴らした瞬間、向かいに座っていた龍也が椅子を蹴たぐり倒して立ち上がった。
「林檎、てめえ」
 突然の怒声に竦んだのは春歌だけで、怒りを向けられている当の林檎は慣れた顔でけろりとしている。
「あら、龍也ったらアイドルがそんな表情してちゃダメでしょ?」
「解っててやってやがんだな。よーし上等だ、その喧嘩、買ってやる」
「り、龍也さん!?」
 一体何がどうして龍也がこんなに激昂しているのかはわからないが、このまま放っておくわけにはいかない。春歌は泡を食いながら、大慌てで龍也の逞しい二の腕に縋りついた。
「落ち着いて下さい、龍也さん! どうしたんですか、突然?」
「……ッ!」
 問い掛けると、今度は苛立たしげな眼差しがまっすぐ自分に向けられた。視線の強さに思わず怯む。
 本当に、一体どうしたというのだろう?
「はいはい、そこまで。悪ふざけがすぎたわ、ごめんなさいね」
 仲裁に入ったのは林檎で、最後の科白は春歌に向けられたものだ。
「ハルちゃんは全然解ってないみたいだから、あんたがちゃんと説明しなさいよ。じゃあ、お邪魔虫は退散するわねん!」
 ヒラヒラと手を振りながら一方的に会話を切り上げ、林檎はヒールを鳴らして部屋を出ていった。
 残された春歌は、なぜ急に龍也が怒ったのかも、どうしてあんな苛立ちを帯びた瞳を向けられたのかも解らないまま、途方に暮れた気分で恋人の横顔を見上げた。
 龍也は苦い表情をしたまま小さくチッと舌打ちをすると、険しい眼差しのまま見下ろしてきた。そして、先ほどの林檎と同じように、春歌の髪を一房掬う。
「あの……?」
「いいか、林檎はああ見えてもれっきとした男だ」
 困惑する春歌に、龍也は噛んで含めるように言を継いだ。聞き分けのない子供に言い聞かせるような口振りで。
 林檎が男性なのは百も承知である。男の人なのにあんなに美人だなんて神様は不公平だと思うこともしばしばなのだ。特に龍也と並び立つ姿は実に絵になっていて、羨ましく思ったことは一度や二度ではない。
「解ってます、って表情だな……。だが、おまえは何も解っちゃいねえ」
 そう言うや否や、長身を屈めた龍也が、手にしたままの春歌の髪に恭しく口づけを落とした。
 突然のことにびっくりする間もなく、気恥ずかしさで一気に頬に熱が上る。
「り、龍也さん!?」
「男に簡単に髪なんか触らせて、顔を近づけさせて……林檎はここまではしなかったが、もしあいつが気紛れを起こしたら、こういうことをされてたかもしれねーんだ。それも、俺の目の前で」
 口調は静かに諭すものだったが、向けられた瞳の奥にはまだ微かに苛立ちの炎が揺らめいている。
 ここへきて、春歌は初めて己の軽率さに気がついた。
「……すみません、でした……」
「いや、俺も大人げなかった。林檎の安い挑発にまんまと乗せられて……怖がらせて悪かったな」
 そう言って微苦笑を浮かべた龍也はもういつも通りの彼で――けれど、春歌の胸裡には言い様のない罪悪感が広がっていた。
「ごめんなさい」
 俯いてもう一度謝る。
 だって、龍也が怒るのも無理はない。
 たとえばもしも自分と龍也が逆の立場だったとしたら。
 他の女の人が親しげに龍也の髪に触れたり、髪に唇が触れるほど接近したりしていたら。
 それを自分の目の前で見せられたりしたら。
 ――考えただけで胸が引き絞られるような心地がする。
 そして実際、春歌が軽率だったせいで、彼にそんな思いをさせてしまったのだ。いくら謝っても謝りきれない。
 きっと林檎は解っていてあんなことをしたのだろう。
 龍也をからかうためというのも、もしかしたら少しはあったのかもしれないが、迂闊な春歌にそれを知らしめることの方が本来の目的だったのではないかという気がする。
 俯いた春歌の頭に、ぽんっと大きな掌が乗せられた。
「解ってくれりゃそれでいい。で、今後はもう少し警戒心を持ってくれると助かる。無防備なのは俺の前だけにしてくれ」
 龍也は甘さを含んだ声でそう言うと、素早く春歌の額にキスをした。
「ッ!?」
「春歌は隙だらけだからな、目を離したら他の男にコナ掛けられちまうんじゃねえかって気が気じゃねーんだ」
 男の艶気をたっぷり含んだ声で囁かれ、思わず腰が砕けそうになってしまう。
 これは、明らかにからかわれている。
 しかし、そうと解っていても、鼓動が早鐘を打つのも、顔に熱が上るのも、胸が切ないくらい痛くなってしまうのも、自分の意思では止められない。
「龍也さん以外に、そんな物好きな人はいませんから、心配無用です」
 春歌に出来ることといえば、せいぜい恨みがましい瞳で彼を見上げることくらいだ。
「……ったく、これだから困るんだ」
「え?」
 龍也が何かぼそぼそと呟いたが、生憎、春歌の耳には何を言ったかまでは聞こえない。
 訝しく首を傾げて訊き返すと、
「何でもねーよ。とにかく、俺以外の男に対してはもう少し警戒すること。林檎や一ノ瀬達でも、迂闊に至近距離に入れるんじゃねえぞ」
 渋面でコツンと小突かれた。
 林檎にしろ一ノ瀬達にしろ、別に近くに寄ったところでどうということはないと思うのだが、龍也がそう言うのなら従うまでだ。大好きな人を無闇にヤキモキさせるのは春歌としても本意ではない。
「はい」
 神妙に頷いた春歌に、しかし龍也はいかにも信用してなさそうな複雑な表情を浮かべていたが、やがて諦めたように肩を落とした。

 翌日、事務所の廊下で友千香に抱きつかれている春歌を見た龍也が、
「男だけじゃなく女相手でも無闇に触らせんな……とは、さすがに言えねーよな」
 と、がっくり肩を落としたのはまた別のお話である。








※ペーパーより再録(初出 2016/01/24 プリ★コン5にて発行)


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