雪解けの兆し

Presented by なばり みずき


 パートナーを痛ましい事故で亡くしてからというもの、仕事の際はともかくプライベートではすっかり気鬱ぎがちな様子だった龍也が、ここへきて少しずつ明るい表情を見せるようになってきた。
 事故から2年の月日が過ぎ、その歳月が傷を癒やしてくれたのかと思っていたが、どうやらそればかりでもないらしい。
 理由はどうあれ、慕っていた先輩に笑顔が戻るのは素直に嬉しい。
 嶺二は控え室で一緒になった龍也が機嫌良く鼻歌など口ずさんでいるのを見て、思わず眼差しを和ませた。
 こんな龍也はずいぶん久しぶりだ。
 春輝が生きていた頃は、彼が新曲のラフを持ってくる度にこうして気に入ったフレーズを口ずさんでいたものだが、何だかその頃の龍也が戻ってきたようでもある。
「龍也先輩、それ、新曲?」
 思わずかつてよく訊いたのと同じように問うと、龍也は薄い眉を顰め、すぐに表情を曇らせてしまった。
「俺はもう歌は辞めたんだ。それはおまえも知ってんだろうが」
 痛みを内包した表情と口調に、嶺二はこの問いは時期尚早だったかと内心で冷や汗を掻いた。こういったやりとりはこれまでにも幾度となく交わしている。また塞ぎきっていない傷口に触れてしまったことに苦い罪悪感を抱いた嶺二だったが、
「今のは生徒が提出してきた課題の曲だよ」
 龍也は微かに苦笑しながらそんな風に説明してくれた。
 常ならばむっつりと黙り込んでしまうか、あからさまに話題転換をされる場面である。
 これまでとは明らかに異なる反応に、嶺二は微かな手応えのようなものを感じ取った。
 具体的に何ということではないのだが、龍也に変化が訪れているのは間違いない。
「ふうん、今年の作曲家コースには期待の新人がいるんだね」
 興味深げに相槌を返すと、これまた珍しく龍也は相好を崩して応じてきた。
「ああ、とんでもねー才能の持ち主だよ。あの若さで、大したもんだ」
 生徒に対しては辛口の評価をすることの多い彼がこうも大っぴらにべた褒めするというのは希有なことだ。それほどまでに見込みのある生徒ということか。
 作曲家コースはアイドルコースと違い様々な年齢の生徒がいると聞いているが、龍也がこういう言い方をするということは本当に若いのだろう。尤も、彼の亡きパートナーは中学卒業と同時に早乙女学園に入学したということだし、中にはそういう生徒がいても不思議はない。アイドルのように年齢的な旬があるわけではない作曲家志望で、高校にも行かずにこの道を選ぶというのは非常に珍しいことではあるけれど。
「幾つなんです?」
「15〜6歳ってとこか。中卒でウチを受けた変わり種だ。高校に行ってりゃまだ1年だな」
 よほど買っているのだろう。説明する眼差しは随分と優しくて和やかだ。いろいろな意味で『期待の新人』だと頭の片隅に書き留める。
 あの龍也がここまで手放しで褒める逸材なら、卒業オーディションは難なくクリア出来るに違いない。仮にパートナーがよほどのヘボだったとしても、龍也の指導力は折り紙付きだ、基礎レッスンによる底上げで最低ラインをクリアさせることなど造作もないことだろう。
 来年には後輩として入ってくるかもしれない期待の作曲家予備軍に早くも胸を踊らせた嶺二だったが、それを遮るように龍也が憂えた表情でため息を洩らした。
「ただ、入学早々パートナーが辞めちまってな……」
「ありゃりゃ」
 学園長でもある早乙女の無茶振りは学園の名物でもある。それについて行けずに退学する者が多いというのは関係者ならば誰もがよく知るところだ。その場の思いつきを装ってはいるが、実際のところは篩に掛けているのだろうというのが嶺二の予想で、龍也や林檎が強く反対することなく受け入れているのもそれゆえだろう。言って聞くような人じゃないから、というのも間違いではないが。
「新しいパートナーは?」
「今のところはまだ決まってねー。作曲のセンスは文句ねーし真面目でいい奴なんだが、どうも引っ込み思案で人見知りなタチだからなあ」
 ガリガリと頭を掻きながらごちる姿はいかにも面倒見の良い龍也らしい。
 シャイニング事務所はアイドル主体の事務所である。いくら才能があっても作曲家だけで卒業オーディションを受けるのは無謀だし、高得点を取るのは至難の業だ。
(それにしても……)
 もともと世話好きなタチだし、気に入った者はとことん可愛がる傾向のある男ではあったが、近年は春輝のこともあってまるで人を寄せつけないバリアーのようなものを纏っていたというのに、一体どうした心境の変化があったのか、この生徒にはやけに深入りしているように見える。
 それほどまでに――あの頑なだった龍也の心を溶かすほどに豊かな才能の持ち主なのだとしたら、件の生徒には是非にも卒業オーディションには受かってほしい。そうしたら、また彼の歌声を聴くことが出来るのではないかという予感めいた願望が胸に去来して止まない。
「さっきの課題の曲、ぼくにも聴かせて下さいよ」
 俄然興味が沸いてねだると、龍也は微笑ってバッグの中から携帯型のミュージックプレイヤーと楽譜を引っ張り出してきた。
「汚すなよ」
 そう言って手渡された楽譜を受け取った嶺二は、譜面を見て思わず目を瞠った。
「おん……っ」
 上げ掛けた声を辛うじて飲み込む。
 五線譜の上、提出者の名前はどこからどう見ても女の子のもので、てっきりその生徒が男だと思い込んでいた嶺二にとっては青天の霹靂ともいうべきことだった。
 相手が女生徒だからといって安易に邪推するのは早計だと冷静な自分が叱咤するが、しかしそうして思い返せば、つい今し方龍也が見せた柔らかな眼差しや、必要以上に目を掛けていることなども説明がつくような気がする。
(これはもしかしてもしかすると、遅い春の到来……かな)
 こっそり胸裡で独白しつつ、改めて譜面に目を落としてミュージックプレイヤーの再生ボタンを押す。
 流れてきた音楽は、一瞬でもそんな色眼鏡で見たことが申し訳なくなるようなものだった。まだ粗削りなところも見受けられるが、それを差し引いて余り有る――歌い手として胸が躍らずにいられない曲だ。
(こりゃ頑なな龍也先輩が奮い起つわけだ)
 龍也の変化に納得すると同時に、未来の後輩候補への興味はますます強くなった。
 彼女には何としても卒業オーディションを勝ち抜いて、事務所所属の切符を手に入れてほしい。
 これだけの才能の持ち主ならば、もしかしたら本当に龍也をまた歌の世界へと引き摺り戻してくれるかもしれない。
(待ってるからさ、早くここまで昇っておいで――後輩ちゃん)
 目を閉じて、心地良いメロディに身を委ね、嶺二は声には出さずにまだ見ぬ未来の後輩へと語りかけた。
 雪解けの兆しに胸を弾ませながら。








龍春に発展する前提での、嶺ちゃん視点での日常余話。
まだハルちゃんは早乙女学園に在学中で、龍也さんもあくまで教師目線。
でも、はっきりとではないけど、ちょっと『何か』が芽吹いてる感じ。


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