誘惑の代償

Presented by Suzume

「こういう、彼氏が我慢できなくなって彼女を押し倒すシーンとかって、実際にはないですよね」
 ドラマを見ながら、春歌がぽつりと呟いた。
 画面の向こうでは甘やかなラブシーンが展開されていて、それが気恥ずかしいのか彼女の頬は微かに赤い。
 照れ臭そうな横顔はまるで誘っているかのような愛らしさだ。
 テレビドラマの展開と、恋人の言葉と――相乗効果による雰囲気に流されて、翔は思わず真顔で、
「押し倒してもいいのかよ?」と聞き返していた。
 こんなことを言ったら怯えさせるだけだ。
 冷静な自分が頭の中で叱咤したが、口を突いて出てしまった言葉はもう戻らない。
 取り繕う言葉も見付けられないまま、まっすぐ春歌を見つめたら、彼女は怯えたように瞳を揺らして、音がしそうなくらいの勢いで首を振った。
「だっだめです!」
 反射的なもので、本気で嫌がっているわけではないのだろう。だが、あからさまな逃げ腰の態度に、少なからず落胆した。
 翔は項垂れそうになる気持ちを無理矢理立て直して、そんな心情など全く見せないまま、
「だろ?」と笑ってみせた。
 愛しい愛しい少女をこれ以上恐がらせたりしないように、そぅっと頭を撫でてやったら、春歌の表情から強張りが消えていった。そのことに安堵しながら、絹糸のような髪を優しく梳る。
「お前が嫌がることできねーよ」
 だから安心しろ、と言い添えて、もう一度頭を撫でた。
 まるで我慢大会のようだが、好きな女を傷付けてまで欲望を優先させるなんて男のすることじゃない。
 彼女はほんの僅か、翔をまっすぐ見つめ返して、それから顔を俯けた。
「春歌?」
 膝の上、スカートをきゅっと握り締めた手から何かの決意を感じ取って、翔は訝しく恋人の名前を呼んだ。
 テレビからは相変わらずラブシーンが垂れ流されていたが、そんなものは全く耳にも頭にも入ってこない。
「春歌?」
 もう一度名前を呼んだのと、迷いを振り切るように春歌が彼の手を取ったのは同時だった。
「翔くん!」
「な、何だよ?」
 気圧されて返事をした翔の眼前で、彼女は思い詰めた表情で口を開いた。
「やっぱり押し倒して下さい」
「はぁっ!?」
 声を裏返らせて身を引きかけたが、それよりも春歌が彼の手を引き寄せる方が早かった。反動で、互いの呼吸が感じられるくらいまで接近した。
 思わずごくりと喉が鳴る。その音と、急激に熱くなっていく頬を他人事のように認識しながら、翔は瞬きも忘れて間近に迫った桃色の唇に視線を注いだ。艶やかな唇はまるでキスをねだっているかのようで、引き寄せられたように目が離せない。
「お前、何言って……」
 掠れた声でそれだけ言うのがやっとだった。
「翔くんが押し倒したいって思ってるなら、押し倒してくれていいです。わたし、嫌じゃないですから」
 握られた手から伝わってくる震えが緊張によるものか、恐怖によるものか、判別できない。
 しかし、このまま雰囲気に流されて押し倒したら、きっと後悔するだろうということは、混乱した頭でも充分理解できた。
 だから翔は大袈裟に溜め息を吐いて、少し強めに自分の額を恋人のそれにごつんっ、とぶつけた。
「ばーか!」
「っ!?」
「こういうのは無理してするようなことじゃないだろ。押し倒したくないって言ったら嘘になるけど、俺はお前に無理させてまでそんなことしたいと思ってねぇよ」
 にっかり笑ってそう言ってから、春歌の手を解いて、困った顔をした恋人を優しく抱き寄せた。途端に愛しい少女の肩からゆっくり力が抜けていく。
 この内気な少女は、一体どれほどの勇気を振り絞ってこんなことを言ってくれたのか――それを思うだけでもう充分だ。
 あやすように背中を撫でてやりながら、翔は内心で、あの場面でよく流されることなく踏み留まった、と自分を力いっぱい誉めた。
「でも、俺もあんまり我慢強い方じゃないんだから、そうやってホイホイ挑発するなよ。次またこんなこと言われたら、今日みたいに大人な態度で引いてやれる保証はないんだからな」
 冗談めかした口調の中に本音を織り交ぜて言ったら、春歌は腕の中で居心地が悪そうに身じろぎして、
「だって……翔くんに、嫌がられてると思われるのは嫌だったんです。翔くんにだったら、何をされても、わたし……」
「だーかーらー、そんな可愛いこと言われたらマジで止まらなくなっちまうから勘弁してくれって」
 どこまで解っているんだか――覗き込んだらやけに真剣な眼差しをしていたものだから、翔はこの日何度目かの溜め息を吐いた。
「翔くん、ドキドキしてますね」
「当たり前だろ。恋人抱きしめてて、こんな可愛いこと言われて、ドキドキしない男なんかいるか」
「わたしもドキドキしてますよ」
 きゅっ、と抱き返してきた春歌の項からやけに甘い香りがして、彼は意地と忍耐を一時棚上げすることにした。
 ここまでされて何もしないなんて、それこそ男が廃るというものだろう。
「こんだけ挑発したんだ、覚悟してもらうからな」
 最後まではしない。でも、少しくらいなら……。
 翔は言い訳がましく心の中で呟いて、いつもより強引に恋人の唇に口付けた。

 その後、甘く激しい口付けは、春歌が「ごめんなさい」と謝るまで続けられたらしい。








※Pixiv、個人サイトにアップしたものを転載(初出 2012/02/07)
ついったのRTで回ってきた
  “「よく彼氏が我慢できなくなって彼女を押し倒すシーンとかあるけど実際ないよね」
   って言ったら彼氏が「押し倒してもいいの?」って真顔で聞くから怖くなって
   「だっだめ」って返したら「だろ?お前が嫌がることできねーよ」って。
   「やっぱ押し倒して」って思わず言ったら彼氏が赤面した”
ってネタを元にした翔春です。
某Yさんからご指名を受けたので勢いで書いてみたのでありました。

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